サルゴン1世
前24世紀半ば、アッカド王朝を開いたサルゴン1世 Sargon I(位前2340~前2284)は、アッカドとシュメール両地方を含むメソポタミアの都市国家群をはじめて統一し、「全土の王」と称した。
p. 18
『サルゴン伝説』によると、産まれたのち籠に入れて川に流され、他の人に拾われるといった出自が語られる*1が、これは古今に広く見られる棄児伝説の中では最古の例である。
「アッカドとシュメール両地方」とさらっと書いてあるが、これらの地方名は詳しい説明なしに出てきており、p. 16の地図にも載っていない。それぞれ主にアッカド人、シュメール人が住んでいた地域なのだが、具体的には「シュメールの地は現在の南イラクで、ウル、ウルクを中心にニップールあたりまでを指し、…[略]…シュメールの北、キシュを中心に現バクダッドあたりまでの地をアッカドとい」*2う。
サルゴンは「都市から司法権、軍事権を奪ったが、社会の形態には変化がなかった。また、彼は都市ごとに異なっていた暦法を改め、共通の全国暦を採用した。」*3
ハンムラビ「法典」
彼[=ハンムラビ]は、シュメール人の法を継承して編纂したハンムラビ法典を制定し、法に基づく諸民族の支配に努めた。
p. 18
ハンムラビ法典は法典ではない。「バビロニアの裁判記録が数多く残っているが、ハンムラビ法典に言及した裁判記録は一点も残っていない。…[略]…ハンムラビ法典は模範的な判決を集めた一種の手引書であって、法的拘束力をもつ法規ではなかった。」*4
*1:杉勇訳「サルゴン伝説」杉勇ほか訳『筑摩世界文学大系I 古代オリエント集』筑摩書房 1978, p. 243
「エニトゥである私の母は、私を孕み、ひそかに私を生んだ。
かの女は藺の籠に私をいれ、瀝青でかの女は私の扉を閉じた。
かの女は、私(の身の丈け)に達しない川に私を投げ入れた。
川は私を支えて、私を灌漑人(水利人)アッキのところに運んだ。
灌漑人アッキは、かれの水差を近づけて(水に漬けて)私をとり出した。
灌漑人アッキは、かれの子として私を〔とり上げ〕、私を養育した。」
*2:松本健「よみがえるメソポタミア文明」松本健編著『NHKスペシャル 四大文明 メソポタミア』日本放送出版協会 2000, p. 97