shaitan's blog

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第1章①-8【東地中海世界の諸民族】

アルファベット

パレスチナ地方に住んでいたセム語系のカナーン人 Canaanites は…[略]…エジプトの象形文字をもとにアルファベットの原型の1つである原カナーン文字を考案したことが知られる。

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フェニキア人が前11世紀頃生み出したフェニキア文字は原カナーン文字から派生したシナイ文字を線状文字に改良してできたもので、アラム文字のもとになるとともに、のちギリシア人に伝わり今日まで使用される西方系アルファベット alphabet の源流となった。これがフェニキア人による文化史上最大の功績であるといわれる。

p. 25

アルファベットの誕生に関しては、アルファベットが表音文字であるために字母の数が少なく*1、「その単純さが万人に通じる読み書き能力の第一の、かつ必要な前提条件だということ」*2と、実際に「高度な技術を持つ書記などごく一部の人々に限られていた文字の使用が、広く普及することになった」*3ことがごっちゃにして語られることが多い気がする。文字の機能的な側面だけを見ると、フェニキア人の行った改良が特別優れていたとは思えない。「フェニキア文字は子音のみを表記することによって語根のみを表示する一種の表意文字形式であり、未だ真の意味での音韻の一つ一つを表記するアルファベットとは言えない」*4という見方すらある。西方系アルファベットに限って言えば、「母音字を使うというギリシア人の画期的な工夫」*5の方が大きな一歩である。それに対し、文化を地中海世界に広めたことは大きな功績と言ってよいだろう*6。「フェニキア人たちは…[略]…ギリシア人にいろいろな知識をもたらした。中でも文字の伝来は最も重要なもので、私の考えるところでは、これまでギリシア人は文字を知らなかったのである。」*7

[2021.3.8 追記]
近代歴史学の祖、ランケ曰く〈先行する時代はただ後続する時代の運搬者にすぎないものであると考えるなら、[…]かくのごときいわば媒介化された時代は、それ自身において意味をもつということがないであろう。[…]だが私は主張する。各時代[…]の価値はそれから派生してくるものが何であるかにかかるのでなく、それが存在そのもの、当のそのもの自体のなかに存するものであると。〉*8

染色

フェニキア人は[…]染色[…]などの手工業も発展させた。

p. 25

フェニキアは[…]世界の染織史上最も注目すべき帝王紫を、ひとつの産業として広めた国家である[…]。ティレ・シドンなどの海岸近くに染工場を設け、貝を採取して布や糸を染め、各地に輸出し、その美しく魅惑で貴重な紫の色を広めたのである。〉*9 染色に用いられたのはアクキ貝科の貝で、内臓にパープル腺と呼ばれる腺がある。この腺に6,6-ジブロモインジゴが乳白色の状態で還元貯蔵されており、日光に当てることで紫色に発色する。染色法は秘伝とされていたため文献も少なく記述も曖昧であるが、古い尿、ハチミツ、食塩水が用いられたと考えられるらしい。*10

*1:表音文字なら必ずしも字母の数が少なくなるわけではない。エジプトのヒエログリフのように複数の連続した子音を表す文字があり多数の文字をもつ場合もありうる。

*2:J. ヒーリー『大英博物館双書 失われた文字を読む4 初期アルファベット』竹内茂夫訳 学芸書林 1996, pp. 108f
識字率が高い漢字文化圏の国に生まれ育った者としては必要とまでは断言できないと思ってしまうが。

*3:佐藤育子「第一章 フェニキアの胎動」栗田伸子ほか『興亡の世界史第03巻 通商国家カルタゴ講談社 2009, p. 39

*4:高津春繁『ギリシア語文法』岩波書店 1960, p. 21
セム語派のいわゆるアブジャドについて表意的であるという指摘が面白い。

*5:G. E. マーコウ『世界の古代民族シリーズ フェニキア人』片山陽子訳 創元社 2007, p. 147

*6:これを強調しすぎるのも、フェニキア人をヨーロッパ世界への単なる中継者とみなすようなヨーロッパ中心主義の匂いがしなくもない。

*7:ヘロドトス「歴史」松平千秋訳 『世界古典文学全集第10巻 ヘロドトス筑摩書房 1967, p. 244(v. 58)
線文字Bギリシア語の表記に使用されていた時代はあったが失われていた。

*8:ランケ『世界史概観』鈴木成高・相原信作 訳 岩波文庫 1961, p. 37.
ただし、次のようにも言っている。〈もっとも、各時代がそれ自身においてそれぞれの理由と価値とをもつものであるとはいえ、また一方においては、それから派生しきたるものが何であるかということも見逃されてはならない。〉(Ibid., p. 38.)

*9:吉岡常雄『帝王紫探訪』紫紅社 1983, p. 42.

*10:吉岡常雄『天然染料の研究』光村推古書院 1974, pp. 70ff.