shaitan's blog

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第1章①-12【パルティア】

バクトリア王国

ギリシア人が支配者であったバクトリア王国ではヘレニズム文化が栄えた。

p. 29

「1965年、フランスの考古学調査隊が、アイ・ハヌムでギリシア都市の遺跡を発掘し…[略]…ここがバクトリア王国の中心都市の一つであったことを明らかにした。…[略]…発掘の責任者、ベルナール教授…[略]…によると、建築技術はおおむねギリシア風であるが、建築の全体的なプランは非ギリシア的であ[り、]…[略]…メソポタミア、アカイメネス朝ペルシア、中央アジアという三つの様式が見られる。…[略]…ヘレニズム時代のアジアは、さまざまな文化が織り込まれた多元的な世界として理解されなければならない。ギリシア文化はその中の重要ではあるが、あくまでも一つの要素なのである。」*1

パルティア

ローマの歴史家ポンペイウス・トログスは「パルティア人はスキュティア人の亡命者であった。…[略]…なぜなら、スキュティア人の言葉では亡命者は『パルティ』と言われるからである。」*2と書いているが、「『パルティア人』という名称は、パルニ族が一時的に占領したこの地域[=カスピ海東南岸一帯のパルサワ(ギリシア語でパルティア)]の地名を冠した他称に過ぎない」*3ため、おそらく誤りであろう。なお、「パルニ族とは、中央アジアのサカ人の伝統を汲むイラン系アーリア人遊牧民の一派で、マッサゲタイ族の分派ダーハ族の出自とされている。」*4

*1:森谷公俊『興亡の世界史第01巻 アレクサンドロスの征服と神話』講談社 2007, pp. 318-325

*2:ポンペイウス・トログス、ユニアヌス・ユスティヌス抄録『地中海世界史』合阪學京都大学学術出版会 1998, p. 429(XLI. 1)

*3:青木健『アーリア人講談社 2009, p. 49

*4:Loc. cit.