shaitan's blog

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第1章①-10【古代オリエントの統一】

リディア

リディアはインド=ヨーロッパ語系のリディア人が前7世紀の半ばに建てた王国で、首都サルデスを中心に対外交易によって栄え、世界最古の金属貨幣をつくったことで知られる。

p. 27

ヘロドトスは「リューディアー王朝の興亡から『ヒストリアイ』を書き始めた。そして第一巻の六節から九四節にわたるこの興亡史は、全巻の中でも、最も物語的色彩の濃い…[略]…箇所である。」*1『歴史』の記述はすべて鵜呑みにはできないとはいえ、「リュディア人は…[略]…金銀の貨幣を鋳造して使用した最初の民であり、また小売制度を創めたのも彼らであった。」*2というのは事実らしい。リディア人は陸上の交易に力を注ぎ、交通網の開発と整備に伴う経済システムの改革が貨幣による交換を生んだ*3と考えられている。

*1:藤忍随『アポローン ギリシア文学散歩』岩波書店 1987, p. 90

*2:ヘロドトス『歴史』松平千秋訳 岩波文庫 1971, pp. 78f.(I. 94)

*3:前田耕作『アジアの原像 歴史はヘロドトスとともに』日本放送出版協会 2003, pp. 109f.

第1章①-9【ヘブライ人とユダヤ教】

出エジプト

前13世紀頃に指導者モーセ Moses に率いられてこの地[=エジプト]を脱出した(「出エジプト」)。

p. 25

出エジプト記に「イスラエルの民はファラオの倉庫の町、ピトムとラメセスを建設した。」*1とあり、この「ラメセス…[略]…はエジプト第十九王朝のラメセス二世(在位前1279-1213年)がデルタ地方の首都として建設したもの」*2とされているため前13世紀頃の事件であることが分かる。
しかし、「当時のエジプトは東部の国境をかなり厳しく防衛しており、二人(!)の逃亡奴隷の追跡についての報告さえ残っている。それにもかかわらず、例えばアピル[=非エジプト系寄留者]たちの大量脱出に類する報告はまったく残されていない。また、エジプトとパレスチナを結ぶシナイ半島の諸ルートや、特にイスラエルの祖先たちが長く逗留したとされるカデシュ(申一46等参照*3)にも、前十三世紀に大きな集団が通過したり滞在したことを示す住居跡や土器の破片など、何も発見されていないのである。…[略]…記録にも残らない些細な出来事、…[略]…考古学的な痕跡も残さないような小規模な事態だったのであろう。」*4

ダヴィ

前13世紀頃から東地中海沿岸一帯には、系統不明のさまざまな集団からなる「海の民」とよばれる民族が侵入し、ヒッタイト帝国を滅亡させ、またエジプト新王国はかろうじてこれを撃退した。…[略]…彼らの活動によってヒッタイトやエジプトの勢力が後退したことから、シリア・パレスチナには政治勢力の空白が生じ、それに乗じてセム語系民族のアラム人・フェニキア人・ヘブライ人が活動を開始した。

p. 24

第2代の王ダヴィ David(位前1000頃~前960頃)はペリシテ人を撃退してパレスチナ全土を支配化におき、イェルサレムを都として統一王国の基礎を固めた。

p. 25

パレスチナは、エジプト、アラビア、シリア、メソポタミアを結ぶ陸橋地帯にあり、戦略上、経済交流上の要衝であったので、常に周辺世界の大国の利害関心の集中する地域であった」*5が、ダヴィデ時代の王国の躍進には上記の「海の民」の侵入に起因する混乱の他に、「メソポタミアでは、新興のアラム人勢力に押されてアッシリアが一時的に歴史の舞台から後退し、バビロニアでも王朝交代とそれに伴う混乱やエラム人の侵入が続」*6いていたという背景があった。

ヘブライ語聖書

旧約聖書』はヘブライ人の伝承、神への賛歌、預言者の言葉を前10~前1世紀の間にまとめたユダヤ教の教典である。

p. 26

ユダヤ教の教典である」と言い切るなら『タナハ』と呼ぶべきではないか。少なくとも中立な表現であることが望ましい。「今日ではユダヤ教キリスト教との対話が進められており、キリスト教の側からは『旧約聖書』という失礼な呼び方を避ける配慮が求められている。…[略]…『旧約聖書』という代わりに『ヘブライ語聖書』と呼ぶように気をつけたい。」*7内容を「ヘブライ人の伝承、神への賛歌、預言者の言葉」と書いているのも中途半端にかみ砕いている感が否めない。
成立時期についてであるが、「旧約聖書の断片的な伝承は、部分的には前1000年頃にまでさかのぼる」*8ものの、「ほぼ現在の旧約聖書の形ができてきたのは、前五世紀~前三世紀頃、初期ユダヤ教の形成の時代とされている。」*9また、「旧約聖書ヘブライ語正典全部が成ったのは後100年頃で、いわゆるヤムニア会議…[略]…以降承認されて決定された。」*10「前10~前1世紀の間」というのが何を指しているのかはよく分からない。

*1:出1:11 訳文は聖書協会共同訳を使用。以下同様。

*2:山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』岩波現代文庫 2003, p. 29

*3:「こうして、あなたがたがカデシュにとどまった日々は長期に及んだ。」(申1:46)

*4:山我 op. cit., p. 31

*5:Ibid., p. 87

*6:Loc. cit.

*7:百瀬文晃『キリスト教の原点 キリスト教概説I』教友社 2004, p. 11
ただしこれはあくまでも「ユダヤ人と接する機会があれば」配慮すべきという意味であり、キリスト教内部での呼称を変えるべきだとの主張がなされているわけではない。

*8:Ibid., p. 12

*9:Loc. cit.

*10:S. ヘルマン「旧約聖書正典の成立」S. ヘルマンほか『聖書ガイドブック 聖書全巻の成立と内容』泉治典ほか訳 教文館 2000, p. 164
ここで「ヘブライ語正典全部」というのはいわゆる『続編』を含まない。

第1章①-8【東地中海世界の諸民族】

アルファベット

パレスチナ地方に住んでいたセム語系のカナーン人 Canaanites は…[略]…エジプトの象形文字をもとにアルファベットの原型の1つである原カナーン文字を考案したことが知られる。

p. 24

フェニキア人が前11世紀頃生み出したフェニキア文字は原カナーン文字から派生したシナイ文字を線状文字に改良してできたもので、アラム文字のもとになるとともに、のちギリシア人に伝わり今日まで使用される西方系アルファベット alphabet の源流となった。これがフェニキア人による文化史上最大の功績であるといわれる。

p. 25

アルファベットの誕生に関しては、アルファベットが表音文字であるために字母の数が少なく*1、「その単純さが万人に通じる読み書き能力の第一の、かつ必要な前提条件だということ」*2と、実際に「高度な技術を持つ書記などごく一部の人々に限られていた文字の使用が、広く普及することになった」*3ことがごっちゃにして語られることが多い気がする。文字の機能的な側面だけを見ると、フェニキア人の行った改良が特別優れていたとは思えない。「フェニキア文字は子音のみを表記することによって語根のみを表示する一種の表意文字形式であり、未だ真の意味での音韻の一つ一つを表記するアルファベットとは言えない」*4という見方すらある。西方系アルファベットに限って言えば、「母音字を使うというギリシア人の画期的な工夫」*5の方が大きな一歩である。それに対し、文化を地中海世界に広めたことは大きな功績と言ってよいだろう*6。「フェニキア人たちは…[略]…ギリシア人にいろいろな知識をもたらした。中でも文字の伝来は最も重要なもので、私の考えるところでは、これまでギリシア人は文字を知らなかったのである。」*7

[2021.3.8 追記]
近代歴史学の祖、ランケ曰く〈先行する時代はただ後続する時代の運搬者にすぎないものであると考えるなら、[…]かくのごときいわば媒介化された時代は、それ自身において意味をもつということがないであろう。[…]だが私は主張する。各時代[…]の価値はそれから派生してくるものが何であるかにかかるのでなく、それが存在そのもの、当のそのもの自体のなかに存するものであると。〉*8

染色

フェニキア人は[…]染色[…]などの手工業も発展させた。

p. 25

フェニキアは[…]世界の染織史上最も注目すべき帝王紫を、ひとつの産業として広めた国家である[…]。ティレ・シドンなどの海岸近くに染工場を設け、貝を採取して布や糸を染め、各地に輸出し、その美しく魅惑で貴重な紫の色を広めたのである。〉*9 染色に用いられたのはアクキ貝科の貝で、内臓にパープル腺と呼ばれる腺がある。この腺に6,6-ジブロモインジゴが乳白色の状態で還元貯蔵されており、日光に当てることで紫色に発色する。染色法は秘伝とされていたため文献も少なく記述も曖昧であるが、古い尿、ハチミツ、食塩水が用いられたと考えられるらしい。*10

*1:表音文字なら必ずしも字母の数が少なくなるわけではない。エジプトのヒエログリフのように複数の連続した子音を表す文字があり多数の文字をもつ場合もありうる。

*2:J. ヒーリー『大英博物館双書 失われた文字を読む4 初期アルファベット』竹内茂夫訳 学芸書林 1996, pp. 108f
識字率が高い漢字文化圏の国に生まれ育った者としては必要とまでは断言できないと思ってしまうが。

*3:佐藤育子「第一章 フェニキアの胎動」栗田伸子ほか『興亡の世界史第03巻 通商国家カルタゴ講談社 2009, p. 39

*4:高津春繁『ギリシア語文法』岩波書店 1960, p. 21
セム語派のいわゆるアブジャドについて表意的であるという指摘が面白い。

*5:G. E. マーコウ『世界の古代民族シリーズ フェニキア人』片山陽子訳 創元社 2007, p. 147

*6:これを強調しすぎるのも、フェニキア人をヨーロッパ世界への単なる中継者とみなすようなヨーロッパ中心主義の匂いがしなくもない。

*7:ヘロドトス「歴史」松平千秋訳 『世界古典文学全集第10巻 ヘロドトス筑摩書房 1967, p. 244(v. 58)
線文字Bギリシア語の表記に使用されていた時代はあったが失われていた。

*8:ランケ『世界史概観』鈴木成高・相原信作 訳 岩波文庫 1961, p. 37.
ただし、次のようにも言っている。〈もっとも、各時代がそれ自身においてそれぞれの理由と価値とをもつものであるとはいえ、また一方においては、それから派生しきたるものが何であるかということも見逃されてはならない。〉(Ibid., p. 38.)

*9:吉岡常雄『帝王紫探訪』紫紅社 1983, p. 42.

*10:吉岡常雄『天然染料の研究』光村推古書院 1974, pp. 70ff.

第1章①-7【エジプトの宗教と文化】

ミイラ

ミイラは脳と内臓を摘出した遺体を洗浄して亜麻布の包帯で全身を包んでつくったものである。

p. 22

ヘロドトスによるとミイラ作りの方法には価格に応じて3通りあり、『詳説世界史研究』に書かれているのは最も高価なミイラ調製の方法である。*1

太陽暦

恒星シリウスの動きをもとに1年を365日としたエジプトの太陽暦

p. 23

またヘロドトスを引くと「エジプトでは三十日の月を十二ヵ月数え、さらに一年について五日をその定数のほかに加えることによって、季節の循環が暦と一致して運行する仕組になっている」*2

*1:ヘロドトス「歴史」松平千秋訳 『世界古典文学全集第10巻 ヘロドトス筑摩書房 1967, p. 95(II. 86)

*2:Ibid., p. 73(II. 4)

第1章①-6【エジプトの統一国家】

河の賜物

ギリシアの歴史家ヘロドトスが「エジプトはナイルの賜物」(『歴史』2巻5章)と述べた

p. 20

『歴史』の該当部分は「今日ギリシア人が通航しているエジプトの地域[=ナイル河のデルタ地帯]は、いわば(ナイル)河の賜物ともいうべきもので、エジプト人にとっては新しく獲得した土地なのである。」*1となっており、注に「『ナイル河の賜物』という句は古来有名であるが、これはヘロドトスの先輩であるヘカタイオスがすでにそのエジプト史に使用した句であるという」とある。
ヘカタイオスのエジプト史は散逸しているのだが、アッリアノスが「エジプトについては歴史家であるヘロドトスとヘカタイオスの両者がともに、とこう言うのもエジプトの土地に関する著作が、ヘカタイオス以外の誰かの手に成ったものではないとしたうえでの話なのだが、ひとしくこれを『〔ナイル〕河の賜物』と呼んでいる。」*2と書いているので、おそらく注はこれを根拠としたものであろう。
なお、ストラボンはヘロドトスの言葉として伝えている*3

この名句はよく引かれ、「定期的なナイル川の氾濫が古代エジプトの繁栄を育てたものであり、その文明も経済もすべてナイル川に負うものだという意味」*4のように説明されるのだが、上に引用した通り、「デルタは河の堆積によってできた」*5程度の意味で使われている。他の部分で「メンピスより下手の地域…[略]…の住民は、あらゆる他の民族やこの地域以外に住むエジプト人に比して、確かに最も労少なくして農作物の収穫をあげている」*6といった言及はあるが、氾濫によって(土ではなく)水が自然にもたらされるおかげで収穫がもたらされるという書き方をしてある。
アッリアノスもストラボンも河川の堆積作用により平地が形成されるという意味でこの句を引いており、いつから繁栄と結び付けられるようになったのかはよく分からない。

ノモス

のちに政治的単位となるノモス Nomos (県)が

p. 20

教科書『詳説世界史 改訂版』(世B310)では、改訂前に「はやくから地域の政治的単位である県(ノモス)が…」だった箇所が「はやくから小規模な国家が…」になっており、理由としては「ノモスはギリシアでの呼称であることや、近年の研究動向を考慮して変更」とある。*7近年の研究動向についてはよく分からない。ノモスは「エジプト語セパトのギリシア語訳」*8とのことなので、用語として望ましくないということか。

治水

規則的なナイル川の氾濫は人々にとって天災ではなく恩恵であり、

p. 20

とあるのに

ナイル川の治水のために住民の共同作業と、彼らを統率する強力な指導者が必要であった。

p. 20

と治水が重要であったかのような記述がありよく分からない。ただ、「エジプトのいちばんの特徴は、ほとんど治水をしなかったというところにある…[略]…ナイル川を氾濫させないようにして耕地を守ろうという政治的なものがなかった」*9とはいえ「池をつくったり、湖に運河を途中から引きこんだりして水をキープしておくということはあった」らしいので、そういう意味での治水はあったのだろう。

クフ王のピラミッド

クフ王のピラミッドは、10万人の労働力と20年の歳月を要したと伝えられる

p. 21

クフ王のピラミッドについて、ヘロドトスは「常に十万人もの人間が、三ヵ月交替で労役に服したのである。…[略]…ピラミッド自体の建造には二十年を要したという。」*10と伝えているがこれのことか。
山川世界史小辞典には「正四面体を呈し、四面を東西南北に向けた第4王朝の大ピラミッドが」*11という記述があるが、ピラミッドは正四面体ではなく正四角錐である。

*1:ヘロドトス「歴史」松平千秋訳 『世界古典文学全集第10巻 ヘロドトス筑摩書房 1967, p. 73(II. 5)

*2:アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記(下)』大牟田章訳 岩波文庫 2001, p. 32(V. 6)

*3:Perseus Digital Library: Strabo, Geography, book 1, chapter 2, section 29

*4:江上波夫監修『新訳 世界史史料・名言集』山川出版社 1975, p. 160

*5:ヘロドトス op. cit., p. 76(II. 15)

*6:Ibid., p. 76(II. 14)

*7:『詳説世界史 改訂版』(世B310)おもな改訂箇所 https://www.yamakawa.co.jp/statics/textbook_files/revision/rev_seb310.pdf

*8:「ノモス」世界史小辞典編集委員会編『山川 世界史小辞典(改訂新版)』山川出版社 2004, p. 517

*9:吉村作治発言「座談会 四大文明をめぐる[一]河川」吉村作治ほか編著『NHKスペシャル 四大文明 エジプト』日本放送出版協会 2000, p. 203

*10:ヘロドトス op. cit., pp. 107f(II. 124)

*11:「ピラミッド」世界史小辞典編集委員会op. cit., p. 568

第1章①-5【メソポタミアの宗教と文化】

神話

シュメールでは『ギルガメッシュ叙事詩』などの宗教文学が発達し、のちにセム系諸民族に伝わって大きな影響を与えた。

p. 19

ギルガメシュ神はアッカド語セム系)の名であり、「本来はシュメルの冥界神で、シュメル語でビルガメシュ神という。…[略]…シュメル語で書かれた複数のビルガメシュを主人公とした物語のなかから取捨選択して、アッカド語の『ギルガメシュ叙事詩』が編纂された」*1ことを考えると、「『ギルガメッシュ叙事詩』の原型となった物語などの」のように書いた方が正確ではないか。

旧約聖書』にある「ノアの洪水神話」もシュメール神話が起源である。

p. 19

この例に限らず、旧約聖書にはメソポタミア起源と考えられているものがある。「バビロニア叙事詩の宇宙創成神話は、少なくとも大筋において、祭司資料、イザヤ記[ママ]、ヨブ記詩篇の…[略]…宇宙創成論の母型になっている。…[略]…[これらの]聖書文書は、イスラエルメソポタミアに大捕囚となった後のものである。こう考えると、宇宙創成神話を、どこから借用したかを決めるのは困難ではない。」*2

占星術、天文・暦法

占星術や天文・暦法も発達した。

p. 19

メソポタミアにおける広い意味の星占い、あるいは天の前兆占いは、紀元前16世紀あたりから始まったとみることができる。…[略]…『エヌーマ・アヌ・エンリル』と呼ばれる一群の粘土板テキスト…[略]…は紀元前1000年頃までの天の前兆を集めたものであり、『もし天で甲という現象が起こると、地上では乙という現象が起こる』というパターン化された表現で前兆が何千も記録されている。」*3
メソポタミアの「絶対年代確定の基になっているのがバビロン第一王朝のアンミ・ツァドゥカ王の治世21年間の『金星の観測記録』*4で…[略]…この観測記録に合致すると思われる複数の年代の中から同王治世1年にあたる年は…[略]…前1702年説、前1646年説および前1582年説の3つが残り、それぞれ高年代説、中年代説、低年代説と呼ばれている。…[略]…現在のところ、メソポタミア史の分野では中年代説が一般的であ」*5る。『詳説世界史研究』も中年代説を採用している。

原理的な考察

おおむねメソポタミア文明ではこのように実用的な文化が発達した反面、実用を超えた原理的な考察は発達しなかった。

p. 19

「実用を超えた原理的な考察」というのはイオニア自然哲学のようなものを指しているのだろうか。そうだとしても「反面」以下をわざわざ書く必要はないように思われる。

[2022.2.18追記]
古代バビロニアでは二次方程式が解かれているが、その際には「面積」に「長さ」を加える操作などがされており、これらは幾何学的な意味ではなく抽象的な意味で使われていたことがわかる。*6更に、単に答えの数値を出すことではなく、一般的な手順を示すことを目的として書かれたと考えられる問題集が存在する。例えば、係数が偶然1であったとしても、1を掛けるという手順がはっきりと示されているなど、具体的な数値が使われていても一般的な代数的操作を表している。*7バビロニア時代では数学は単なる実用の域を越えて体系的な学問へ発展していったのである。*8

楔形文字

絵文字から発達したシュメールの楔形くさびがた文字

p. 19

ここで「絵文字」と言われているのはウルク古拙文字のことであろう。「絵文字」といっても、〈一般的にみられた記号は抽象的なものであった。たとえば「金属」を表す記号は三日月形に5本の線が入ったもの、「羊」を表す「絵文字」は丸のなかに十字の入ったものであった。〉*9 デニス・シュマント=ベッセラは、このウルク古拙文字の起源はトークンであるとする。トークンとは、物品の数量管理のために使用された小さな粘土製品であり、計算される財ごとに形状は異なっていた。トークンでは数量と形状は不可分に結びついていたが、粘土板に書かれるようになってから、数字と計量対象の分離が起こった。〈たとえば、ウルク出土の1枚の粘土板文書には、「羊5単位」を表す勘定が[…]「羊」を表す絵文字(十字のついた円形)と、「5」を意味する5つの楔形の押印記号で記されている。〉*10〈絵文字は、ひとたびあらゆる数の概念から切り離されると、それ独自の進化を遂げることとなった。それまで財の勘定を記録するために用いられていたシンボルは、人間のあらゆる営みを伝達するように拡大していった。〉*11

*1:小林登志子「第八章 『ギルガメシュ叙事詩』成立縁起」岡田明子ほか『シュメル神話の世界』中公新書 2008, pp. 225f

*2:J. ボテロ『神の誕生 メソポタミア歴史家がみる旧約聖書』角山元保訳 ヨルダン社 1998, p. 269

*3:矢野道雄『星占いの文化交流史』勁草書房 2004, pp. 10f

*4:これは『エヌーマ・アヌ・エンリル』の第六三粘土板のことである。Ibid., p. 13

*5:中田一郎『世界史リブレット人01 ハンムラビ王 法典の制定者』山川出版社 2014, p. 3

*6:ボイヤー『数学の歴史』1(新装版)加賀美鐡雄・浦野由有[訳] 朝倉書店 2008 [1983, 原著 1968], p. 42.

*7:O. ノイゲバウアー『古代の精密科学』矢野道雄・斎藤潔[訳] 恒星社厚生閣 1984 [原著 1957], pp. 37f.

*8:中村滋・室井和夫『数学史――数学5000年の歩み』共立出版 2014, p. 76.

*9:デニス・シュマント=ベッセラ『文字はこうして生まれた』小口好昭、中田一郎訳 岩波書店 2008, p. 5.

*10:Ibid., p. 123.

*11:Ibid., p. 126.