shaitan's blog

長文書きたいときに使う.

読書について

私は本や読書家が嫌いだ*1、という程ではないにせよ、やたらと好きというわけでもない。というわけで、本について否定的なことを書いてみようと思う。ただ、こういう意見を一人で表明するのは怖いので、〈本当に君の肺腑から出たものでない以上、/心から人を動かすということはできないものさ〉*2と言われるかもしれないが、本の力を借りることにする。〈世間普通の人たちはむずかしい問題の解決にあたって、熱意と性急のあまり権威ある言葉を引用したがる〉*3のである。

知識は本質的に読書から得られるものという考えはほんの近世になってからのものだと思われる。それはおそらく僧侶と庶民とを分け隔てようとする中世の慣習から至ったものだろう。さらに十六世紀のどちらかというと気まぐれな人文主義がもつ文字文化的性格がそれにいっそうの拍車をかけたのだった。

G. S. ブレット『古代と現代の人間心理』*4

文字を読めるというのが特殊技能であった時代には、本を読むということが特権的であったというのは理解できる。

だがわれわれは、読み書きの能力が万人のものとなり、その価値があまりにも稀釈されてしまった[…]時代に住んでいるのだ。話されたり歌われたりすることばは、[…]電気工学の力をかりて再び往年の地位をとりもどしつつある。印刷本に基礎をおく文化は、ルネッサンス時代からはじまって最近にいたるまで圧倒的な優勢を誇ってきたわけだが、計り知れないほどの富と同時に、破棄するにあたいする俗物的衒学趣味をも遺産としてわれわれの手に残したのである。

ハリー・レヴィン(アルバート・B・ロード『物語詩の歌い手』序文p. 13)*5

さらに、マクルーハンによれば、〈集団的な国民意識[…]は新しい技術[=活版印刷]によって、民族語が視覚化され、統合され、国民生活において中心的なものになるにつれて形成されたのだ〉という*6

現代の巨大社会の政治的・文化的統合は、もはやマージナルな範囲でしか文芸的、書簡的、人文主義的なメディアによって生産されていないのである。これによって文学が終焉したというわけではないが、文学は既に特殊な(sui generis)サブカルチャーへと分化されてしまっており、文学が国民精神の担い手として過剰評価されていた時代は基本的に終焉したのである。社会的総合はもはや――そしてもはや目に見える形では――第一義的に、本・書簡に関わる事項ではなくなったのである。

ペーター・スローターダイク『「人間園」の規則』*7

*1:〈私は旅や探検家が嫌いだ〉C. レヴィ=ストロース『悲しき熱帯I』川田順造[訳] 中公クラシックス 2001, p. 4.

*2:ゲーテファウスト 第一部』相良守峯[訳] 岩波文庫 1958, p. 44. (ll. 544f.)

*3:ショウペンハウエル「思索」『読書について 他二篇』斎藤忍随[訳] 岩波文庫 1960, p. 19.
なお、この記事のタイトルもショウペンハウエルの他の著作のそれをそのまま使わせてもらっている。〈もっとも悪しき書名は、盗み取ってきた書名、言い換えればすでに他人の著書のものになっている書名である。〉(Id.「著作と文体」ibid., p. 33.)とも言われているが構うものか。

*4:M. マクルーハングーテンベルクの銀河系』森常治[訳] みすず書房 1986 [原著1962], pp. 116f. より
原文 :Psychology Ancient And Modern : George Sidney Brett : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

*5:マクルーハン op. cit., pp. 3f. より

*6:Ibid., p.304.
とはいえ、〈ただ文字を書くという行為だけでは表音文字がもたらす非部族化現象は生じない。音から意味を取り去り、つぎに音を視覚的なコードに移しかえるという二重の作業をともなう表音文字の発明があってはじめて、人間は自分たちを変質させる経験に取り組みはじめるのだ。多方、絵文字や表意文字、さらには象形文字も含めてすべて一様に、表音文字がもつ非部族化への力を持ちえない。〉(Ibid., p. 38.)とあるように、マクルーハンはあくまでも表音文字に限った議論をしていることに注意。なお、〈中国とインドのような地域はまだ基本的には聴覚・触覚社会である。そうした地域でも、ときに表音文字がたまたま使用されたこともあったが、大勢はもとのままといってよい。〉(Ibid., p. 36.)とも書いている。中国で使われた表音文字とは元代のパスパ文字や清代の満州文字のことであろうか。ただ、インドの文字と言えば、未解読のインダス文字を除けば、いずれもアラム文字に起源を求められるとされるカローシュティー文字ないしブラーフミー文字およびそれらの子孫であり、どれも表音文字である。(R. G. Salomon「ブラーフミーおよびカローシュティー文字」家本太郎、内田起彦[訳], P. T. Daniels and W. Bright [ed.]『世界の文字大事典』矢島文夫[総監訳] 朝倉書店 2013, pp. 393, 398f.)

*7:P. スローターダイク『「人間園」の規則』仲正昌樹[訳] 御茶の水書房 2000, pp. 31f.