shaitan's blog

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第1章②-10【ペロポネソス戦争】

開戦

デロス同盟によって急速に勢力を広げたアテネに、ペロポネソス同盟の盟主スパルタは脅威を感じた。やがて対立する両者は…ペロポネソス戦争(前431~前404)に突入した。

『詳説世界史研究』p. 43.

トゥキュディデスはペロポネソス戦争の原因として、〈あえて筆者の考を述べると、アテーナイ人の勢力が拡大し、ラケダイモーン人に恐怖をあたえたので、やむなくラケダイモーン人は開戦にふみきったのである。〉という見解を述べている。

クセルクセースの撤兵から今次大戦勃発にいたる約五十年の期間に…アテーナイ人はその支配圏をますます強固な組織となし、かれらは著しい勢力拡張をとげた。しかしラケダイモーン人はこれに気付いていながら、干渉らしい干渉を見せず、殆んど終始して静観の態度を変えようとしなかった。一つにはラケダイモーン人の性癖として万止むを得ざる場合を除いては、急いで戦に赴くことを好まぬためであったが、また自国の内乱が彼らの出足を鈍らせていた。ついにアテーナイの勢力は衆目にも疑いないまでの発展を遂げ、ついにはペロポネーソス同盟をも侵蝕する事態となった、ここに至ってかれらはもはや看過するに忍びず、ただ全力を鼓舞して反撃すべきであるとし、なお出来うればアテーナイ勢力の潰滅を遂げんとして今次の大戦を起したのであった。

トゥキュディデス『戦史』I. 118. *1

アリストパネスは〈ペリクレースが…このポリス[=アテナイ]に火をつけたのだ、メガラに関する決議という小さな火花を投げ込んで。それを彼は戦争になるよう煽り立てたので、煙でギリシア人すべてが涙を流すほどだった〉*2 と、メガラに対する経済封鎖*3 が直接の原因とする。トゥキュディデスによれば、ペリクレスは次のような演説をした。

メガラの禁令さえ解けば戦争は回避できる、とかれらはしきりに強調しているが、しかし諸君のうちで一人たりとおそれて、メガラの禁令を固執するのは些細な問題で戦乱を惹起することではないか、わずかな紛議から開戦したという責めを後世に負うことになるのではないか、と疑問をはさむものがあってはならぬ。…もし諸君がかれらの要求に譲歩すれば、恐怖心から些細なことにも妥協した、と思われて、ただちにまたこれに上廻る要求をつきつけられるにちがいない。…対等たるべき間柄の一国が他の国に、法的根拠もない要求を強いれば、事の大小如何にかかわらず、これは相手に隷属を強いることにひとしい。

トゥキュディデス『戦史』I. 140. *4

陣営

ギリシア世界は、おもに民主政ポリスを中心とするアテネ側と、貴族政ポリスを中心とするスパルタ側の2陣営に分かれて戦うことになった。各同盟国にも民主派と貴族派の国内対立があり、両派のそれぞれを各陣営が応援して紛争に介入した。それゆえ地域紛争が同時に二大陣営の代理戦争ともなり、ギリシア人同士が全面的に争い合うこの戦争は、はてしなく戦線を拡大していった。

『詳説世界史研究』p. 43.

処々の都市においてもアテーナイ勢の加勢を導入しようとする民衆派領袖と、ラケダイモーン勢を入れようとする貴族派の紛争が生じ、そのために極言すれば全ギリシア世界が動乱の渦中に陥った

諸都市における両派の領袖たちはそれぞれ、体裁のよい旗印しをかかげ、民衆派の首領は政治的平等を、貴族派は穏健な良識優先を標榜し、言葉の上では国家公共の善に尽すといいながら、公けの益を私物化せんとし、反対派に勝つためにはあらゆる術策をもちいて抗争し、ついには極端な残虐行為すら辞さず、またこれを受けた側はさらに過激な復讐をやってのけた。

トゥキュディデス『戦史』III. 82.*5

トゥキュディデスは〈このとき生じたごとき実例は、人間の性情が変らない限り、個々の事件の条件の違いに応じて多少の緩急の差や形態の差こそあれ、未来の歴史にも繰返されるであろう。…戦争は日々の円滑な暮しを足もとから奪いとり、強食弱肉を説く師となって、ほとんどの人間の感情をただ目前の安危という一点に釘づけにするからである。〉*6 と戦時下における人々の心理という観点から分析を加えている。

デマゴーグ

クレオン Kleon(?~前422)などデマゴーグ demagogue とよばれる新興の大衆政治家たちが指導権を握ると、アテネの政界は混乱し始めた。ペリクレスのような優れた資質をもたぬ彼らは長期的な戦略を立てられず、和平の機会を見失った民衆は迷走した。

『詳説世界史研究』p. 43

トゥキュディデスはペリクレスを高く評価しており、〈ペリークレスは…何の恐れもなく一般民衆を統御し、民衆の意向に従うよりも己れの指針をもって民衆を導くことをつねとした。…かれの後の者たちは、…皆己れこそ第一人者たらんとして民衆に媚び、政策の指導権を民衆の恣意にゆだねることとなった。〉*7 また、アテネの民衆についても〈ポリスの存亡を議する人間というよりも、弁論術師を取巻いている観衆のごとき態度で、美辞麗句にたわいもなく心を奪われている〉*8 と評している。このようにデマゴーグとそれに惑わされる民衆という図式で描かれがちであるが、それは一面的な見方であるらしい。

デマゴーグと呼ばれる政治家たち…はいわゆる名望家と呼ばれるにふさわしい富裕市民であった。つまり、かつては古い家柄を誇る門閥出身の政治家たちに限られていた民主政の指導者層が、この時代、経済的実力を身につけて社会的上昇をとげた本物の平民層にまでそのすそ野を拡大したということなのだ。その意味で、これは民主政の進展の一つの現れと言える。貴族の家柄と伝統的威信によって民衆をリードする、古いタイプの政治家に代わって、これら新しいタイプの政治家たちは、民会での弁舌・説得を主たる武器にして政治の舞台に登場した。

橋場弦『民主主義の源流 古代アテネの実験』*9

和平

『研究』に「和平の機会を見失った」とあるが、これはアテナイがピュロスを押さえた際のスパルタの和議申し入れを拒否したこと*10を指しているのであろう。当時和平反対の論陣を張ったのはクレオンであるが、〈クレオーンは平和がくれば己れの悪行を隠蔽する口実を失い、他にたいする誹謗的言動に耳を貸すものがなくなるに違いないと案ずる心から…平和論に反対していたのである。〉*11 クレオンとブラシダス(スパルタの主戦派)が揃って戦死した後の〈前421年に穏健民主派指導者ニキアスの外交交渉によって、いったん和平がもたらされる。〉*12 ただし、〈両国は互いに相手の領土に兵をすすめて攻めあうことは控えたにせよ、領土外では休戦の条件が定かならぬにまかせて、両国は互いに極力相手側に損害を与えつづけた。…平和条約の介在した期間…が戦争の名には値しないと考えるものがあれば、それは正当な根拠を欠いている。〉*13

PEACE, n. In international affairs, a period of cheating between two periods of fighting.

シチリア大遠征

前415年、アルキビアデス Alkibiades(前450頃~前404)の提案でアテネは無謀なシチリア大遠征に乗り出した

『詳説世界史研究』p. 43

アルキビアデスはアテナイにおいて上記平和条約の破棄を望んでいた一派の中心で、奸計を用いてアルゴスとの同盟締結を進めた*14。この理由について、アルキビアデスはスパルタ市民の前で〈諸君に対しては数々の好意を示し、とりわけピュロスの惨害の善後策に尽したのであった。しかるに、かくも誠実終始欠くるところない私を無視して、諸君はアテーナイと講和を談ずるに際しては私の仇敵[=ニキアスら]を介して工作を進め、かれらには権勢を、私には屈辱を与えた。このような諸君の仕打ちに対する当然の報復として〉*15行ったのだと述べている。シチリアの大遠征についても、扇動したのは主戦派のアルキビアデスであるが、主戦派が支持された背景には〈戦費は国庫の余財や富裕市民の負担によってまかなわれるが、戦の結果あらたに領土を得れば、その配分は中、下層市民をうるおす〉*16 という、戦争によって民衆が得をする社会の構造があった。アリストテレスの〈民主制は貧困者の利益を目標とするものであって、…公共に有益なものを目標とするのではない〉*17 という言葉が思い起こされる。
トゥキュディデスは生前のペリクレスに〈戦争継続中には支配圏の拡大を望むべきではない〉*18と言わせており、また、大遠征前には〈ほとんどのアテーナイ人は、島の大きさや、そこに住するギリシア人や異民族の人口について何も知らず、さらにこの戦がペロポネーソス同盟を相手の戦争と比べても、ほとんど遜色ない規模の大戦争となりうることにも気がつかなかった。〉と書いている。これらは「無謀な」と思わせる記述であるが、〈この[=シチリア遠征の]失敗は、かれらが敵について致命的な誤算を犯したために生じたものではなく、遠征軍にたいして本国の責任者たちが必要な応援をつづけなかったことが大きい原因をなしていた。〉*19という。

*1:トゥキュディデス『戦史』久保正彰 岩波文庫 1966-1967, (上) pp. 160f.

*2:アリストパネス「平和」(606-611)佐野好則[訳]『ギリシア喜劇全集2』岩波書店 2008, p. 149.

*3:〈メガラの船舶がアテーナイ支配圏内の港湾から閉めだされ、アテーナイ市のアゴラもメガラ人の出入を禁止している〉トゥキュディデス op. cit., (上) p. 115.(I. 67.)

*4:Ibid., (上) p. 185.

*5:Ibid., (中) pp. 100-102.

*6:Ibid., p. 100.

*7:Ibid., (上) p. 253.(II. 65.)

*8:Ibid., (中) p. 55.(III. 38.)
トゥキュディデスはこのくだりをクレオン自身に言わせている。

*9:橋場弦『民主主義の源流 古代アテネの実験』講談社学術文庫 2016, pp. 181f

*10:トゥキュディデス op. cit., (中) p. 154.(IV. 21)

*11:Ibid., (中) p. 280.(V. 16)

*12:橋場弦「第1章第2節 ギリシア・ポリス世界の繁栄」服部良久・南川高志・山辺規子[編著]『大学で学ぶ西洋史[古代・中世]』ミネルヴァ書房 2006, p. 33

*13:トゥキュディデス op. cit., (中) p. 291(V. 25-26.)

*14:Ibid.,(中)pp. 311-319(V. 43-48.)

*15:Ibid.,(下)p. 121(VIII. 89.)

*16:Ibid., (下) p. 49n.

*17:アリストテレス政治学』山本光雄訳 岩波文庫 1961, pp. 139f.(1279b)
ここでアリストテレスは「民主政」(δημοκρατία)という用語を、正しい「国制」から逸脱した政体という意味で使っている。

*18:トゥキュディデス op. cit., (上)p. 190.(I. 144)

*19:Ibid., (上)p. 253.(II. 65.)