shaitan's blog

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Silent Spring

出版当時の状況が分からないのでこの本をどのように評価してよいか困惑する。当時の知識がどうであったかを考慮に入れねば科学的内容に限ったとしても正当な評価とは言えまいし、そもそも扇動的な筆致の本書の意義は内容の正確性などよりもそれが与えた影響であろう。しかし、本エントリではあくまでも現代的な視点で内容を中心に見ていきたい。なお、この記事は網羅的なものではなく、以下に挙げた箇所以外の部分に問題がないということを意味しない。

翻訳

すべての生命のエネルギー源である太陽光線にも、短波放射線がひそんでいて、生命をきずつけたのだった。

沈黙の春』二 *1

「短波放射線」はさすがに意味が分からない。原文は〈short-wave radiations〉*2であり、短波放射か、あるいは文脈からするとUVなどを念頭において「短波長の放射」という意味のようである。英語でradiationは「放射」「放射線」のいずれの意味もあるが、上記の引用の前には〈Certain rocks gave out dangerous radiation;〉*3とありこちらでもradiationが使われているため、知識がないと正しく訳し分けるのは難しいかもしれない。このradiationの誤訳としては14章に〈ultra-violet radiation〉*4が〈放射性紫外線〉*5と訳されている箇所もある。これに限らず、科学分野の用語については奇妙な訳語が散見される。

化学薬品が使われだしてから、まだ二十年にもならない。それなのに、合成殺虫剤は[…]いたるところに進出し、[…]

沈黙の春』三 *6

これも明らかにおかしい。「化学薬品」を人工合成されたものに限るとしても、例えば1899年にはアスピリンが市販されている*7 。より農薬に近いものとして、生物の殺傷を目的としているという点では毒ガス、農業生産で利用されるという点では化学肥料を考えても、前者は第一次大戦で大量に使用されているし、後者はさらに古い。1913年にはハーバー・ボッシュ法によるアンモニアの大規模生産が開始されている。*8
ちなみに、原文は〈In the less than two decades of their use, the synthetic pesticides have been so throughly distributed [...]〉*9なのだが、なぜわざわざ訳語に変化をつけたのであろうか?

訳の質の他に、訳書では原著のList of Principal SourcesやIndexが省略されていることにも注意。

Organic

In being man-made -- by ingenious laboratory manipulation of the molecules, substituting atoms, altering their arragement -- they differ sharply from the simpler inorganic insecticides of pre-war days. These were derived from naturally occuring minerals and plant products [...]

Silent Spring, Chap. 3 *10 [強調は引用者]

〈plant products〉としてこの後にジョチュウギクなどが例示されるのだが、それらまで〈inorganic〉と呼ぶのはいくらなんでも乱暴ではなかろうか。

DDTの毒性

食品薬品管理局の専門家たちは、すでに一九五〇年に声明を出している――≪DDTにひそむおそろしい毒性は、いままであまりにも過小評価されてきたきらいがある≫。[…]最後には、いったいどうなるのか、まだだれにもわからない。

沈黙の春』三 *11

DDTは殺虫スペクトルの幅が広く、標的とした害虫以外の一般の昆虫にも広く効果が及んだ*12 が、選択毒性係数は大きく、昆虫に対する急性毒性と哺乳動物に対するそれとは大きな差があった。そのため、DDTの使用によって実際の場面で人間や家畜に異常が見られたケースは皆無であった。*13

毒性の評価

カーソンは殺虫剤そのものに反対していたというわけではなく、

It is not my contention that chemical insecticides must never be used. […]
I contend, furthermore, that we have allowed these chemicals to be used with little or no advance investigation of their effect on soil, water, wildlife, and man himself.

Silent Spring, Chap. 2 *14

とあるように、あくまでも濫用を問題にしている。現在は農薬が上市されるまでには人体および環境への安全性の厳しいテストをクリアせねばならず、当時よりは状況は大幅に改善しているといえる。残留性の高いDDTの教訓から易分解性のもの、選択毒性係数の小さい有機リン酸エステル系殺虫剤の教訓から作用の選択性の高いものが望ましいことが分かっているが、現在の農薬のほとんどがそれらの性質を備えている。*15また、水棲動物への影響としては日本では魚類はコイやヒメダカ、甲殻類はミジンコなどで毒性試験が行われている。*16

天然と合成

発癌の原因となる自然因子は、いまでもおそろしい不幸をもたらすが、その数は少ない。太古のむかしから、生命はこれらの物質に適応するすべを会得してきたからだ。

沈黙の春』十四 *17

これはいくつかの点で誤っている。人間の防御機構は一般に普遍的であり天然、合成化学物質のどちらにも働く。さらに、脊椎動物の進化史を通して存在した天然の毒素(例:アフラトキシン)ですら発がん性を示すし、そもそもヒトが摂取するようになってからさほど経っていない食用植物(例:コーヒー、チャ、ジャガイモ)も多い。*18
また、植物は生体防御のために天然の農薬成分を生成する。平均的米国人が摂取する残留合成農薬の量は天然の農薬成分の一万分の一程度の量に過ぎず、重要性は低い。*19

合成化学物質ではないためかカーソンは生物農薬を絶賛しているが、生態系に及ぼす影響を考えると手放しで評価できないのではないか。

いわゆる天敵の利用――害虫を駆除するに別種の生物を導入する方法にしても、自然界のバランスの破壊であることにはかわりなく、そうであるかぎりまた何らかの形で同様の困難が生じてくるにちがいない。
*20

*1:R. カーソン『沈黙の春』新装版 青樹簗一[訳] 新潮文庫 (1987), p. 16. [『生と死の妙薬』(1964)改題]

*2:R. Carson, Silent Spring, Penguin Classics (2000), p. 24. [1962]

*3:Loc. cit.

*4:Ibid., p. 193.

*5:カーソン op. cit., p. 281.

*6:Ibid., p. 28.

*7:有機合成化学協会[編]『トップドラッグから学ぶ創薬化学』p. 3.

*8:深海浩『変わりゆく農薬 ――環境ルネッサンスで開かれる扉――』化学同人 1998, pp. 16f.

*9:Carson, op. cit., p. 31.

*10:Ibid., pp. 31f.

*11:カーソン op. cit., p. 39.

*12:深海 op. cit., p. 39.

*13:Ibid., p. 42.

*14:Carson, op. cit., p. 29.

*15:深海 op. cit., pp. 43-45.

*16:Ibid., p. 77.

*17:カーソン op. cit., pp. 281f.

*18:B. N. エイムズ・L. S. ゴールド「がん予防と環境化学物質の混乱」児玉靖司[訳]、M. ガフ[編著]『アメリカの政治と科学』菅原努[監訳] 昭和堂 2007 所収, pp. 132-134. [M. Gough Politicizing Science: The Alchemy of Policymaking 2003]

*19:Ibid. pp. 128-130.
深海 op. cit., pp. 82f.

*20:筑波常治「解説」1973, カーソン op. cit. 所収, p. 393.