shaitan's blog

長文書きたいときに使う.

インディアスの有尾目の呼称についてのあまり簡潔でない報告


広辞苑第七版では〈外来語については、日本に直接伝来したと考えられる原語を掲げ〉てあり、「アホロートル」のそれは英語の〈axolotl〉であるとしている。*1しかし、英語から入ったと考えると「ホ」は上に引用したツイートの指摘通り不自然である。管見の限りでは他の国語辞典で原語を英語としているものはなく*2、記載があるものはいずれも原語はスペイン語のaxolotlであるとしている。*3
スペイン語の<x>の発音は歴史的には[ks]であり、現在では音環境によって[k]は有声摩擦音化し[ɣ]になったり、弱化したり脱落することも多い。だが、メキシコ先住民語に由来する語では、<x>を[x]で発音するものがある。*4 また、現代スペイン語で「アホロートル」は〈ajolote[axolóte]〉*5 である*6
これではスペイン語であるとしても日本語の語形の問題は解決しない。しかも、スペイン語の綴りも国語辞典のそれとは異なり、原語とされる〈axolotl〉がスペイン語であると称するのが適切なのかもよく分からない。小学館『西和中辞典』第2版には〈axolotl [ak.so.lótl // a.xo.-]〉が立項されており*7、これを信じるなら綴りも発音もなにも問題なくなるのであるが、スペイン王立アカデミーの辞書であるDiccionario de la Lengua Españolaにはajoloteしか載っておらず*8、少なくとも現代のスペイン王国における規範的な綴りではないようである。時代差や地域差があるのかもしれないのでこれ以上はよく分からない*9。こちらに載っていない異なる綴りとしてはaxoloteも使用されているようである*10が、やはり日本語の「トル」が説明できない。
1940年出版の『メキシコ風土誌』には〈アホロテ(Ajolote)〉と紹介されており*11、また、別種の生物であるがlagarto ajoloteはアホロテトカゲという和名が定着しているようである。スペイン語の音写であればこうなるのが自然である。
アホロートル」の古い例を探すと、1890年発行の教科書にAxolotleにアホロートルとルビが振ってあるものが見つかる*12。この綴りはポルトガル語axoloteの異綴りらしい*13が、ポルトガル語だとしても音が合わないように思われる。結局、現在定着している「アホロートル」という語形の起源については分からなかった。
さて、半世紀後の『メキシコ風土誌』で「アホロテ」と紹介されているように、この「アホロートル」という語形はすぐに一般化したわけではなく、英語由来と思われる「アキソロ(ー)トル」や「アクソロ(ー)トル」なども国会図書館デジタルコレクションを見るかぎり、少なくとも1960年代くらいまでは多く使われていたようである*14

[2023.8.28追記]
shaitan.hatenablog.com

*1:新村出[編]『広辞苑』第7版 岩波書店 2018 [電子辞書版], 「アホロートル

*2:国語辞典に限らなければ、『日本大百科全書(ニッポニカ)』 (アホロートル(あほろーとる)とは? 意味や使い方 - コトバンク)には原語を英語として立項してある。

*3:『精選版日本国語大辞典』, 『大辞泉』(アホロートル(あほろーとる)とは? 意味や使い方 - コトバンク
大辞林』第4版(ビッグローブ辞書アプリ版), 「アホロートル
三省堂国語辞典』第8版 [小型版] 三省堂 2022, 「ウーパールーパー

*4:伊藤大吾「第一章 文字と発音」山田善郎ほか『中級スペイン文法』 白水社 1995, pp. 14f.

*5:宮城昇ほか[編]『現代スペイン語辞典(改訂版)』白水社 1999, "ajolote".

*6:[2023.8.23追記]
16世紀にBernardino de Sahagúnが編纂した"La Historia General de las Cosas de Nueva España" には axolotlの語形が見られる。https://www.loc.gov/resource/gdcwdl.wdl_10096_002/?sp=470

*7:axolotl(スペイン語)の日本語訳、読み方は - コトバンク 西和辞典

*8:ajolote | Definición | Diccionario de la lengua española | RAE - ASALE

*9:[2023.8.24追記]
スペイン語では16世紀初めには<x>で表される[ʃ]音に[ʃ]>[x]という変化は起こっており、17世紀初めから<j>で表される有声の[ʒ]も[x]に合流した。その後に綴り字の上で<x>が<j>に変化したらしい。(小林標『ロマンスという言語 ――フランス語は、スペイン語は、イタリア語は、いかに生まれたか――』大阪公立大学共同出版会 2019, p. 226
[2023.8.28追記]
これらの変化の要因であるが、[ʒ]の無声化はバスク人スペイン語の影響があり、しかも有声/無声の対立は弁別の上であまり機能を負っていなかったからである。[ʃ]の場合は[s]との区別は音韻論上重要であったため、音の違いを強調するために[ʃ]>[ç]>[x]といった変化を辿った。(E. コセリウ『言語変化という問題』田中克彦[訳] 岩波文庫 2014, pp. 220-222. (第3章3.2.1))

*10:axolote – 英語への翻訳 – スペイン語の例文 | Reverso Context
Axolote | Spanish to English Translation - SpanishDictionary.com
また、ガリシア語、ポルトガル語でもaxoloteのようである(axolote - Wikcionario, el diccionario libreaxolote - Wikcionário)。

*11:松井佳一『メキシコ風土誌』育生社 1940, p. 131.
メキシコ風土誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*12:飯島魁『動物学教科書 : 中等教育第2』敬業社 1890, p. 262.
動物学教科書 : 中等教育 第2 - 国立国会図書館デジタルコレクション(「アホロートル」で検索しても出てこないので注意)

*13:axolote - Wikcionário

*14:古いものでは、天野皎[抄訳]『小学博物書 巻之3』竜章堂(1877)に〈墨是哥「サイレン」ト稱スルモノハ「サイレン」種ノ中ノ一種ニシテ「アキソロット」或ハ「アキソロットル」ト稱スル処ノモノナリ〉(小学博物書 巻之3 - 国立国会図書館デジタルコレクション)とある。本書の元になった懸図は School and family charts, accompanied by a manual of object lessons and elementary instruction, by Marcius Willson and N.A. Calkins. No. XVIII. Zoological: class III. Reptiles, class IV fishes | Library of Congress であり、図の説明は The Fifth reader of the school and family series. : Marcius Willson , Harper & Brothers : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive と思われる。こちらでは綴りはaxolotとなっている。

第1章③-11【ローマの生活と文化】

ローマ字

ギリシア文字からつくられたローマ字は

『詳説世界史研究』p. 64.

ローマ字は原始エトルリア文字を通してギリシア文字を取り入れた。そのためは有声・無声の区別なく/k/, /g/に使われていた*1が、後に〈C〉に線を加えた〈G〉を有声音/g/の表記として用いるようになった。*2 また、古拙期のラテン語において、〈C〉, 〈K〉, 〈Q〉が前硬口蓋音、軟口蓋音、後硬口蓋音の/k/を表しており、それぞれ〈E〉と〈I〉、〈A〉と子音字、〈U〉と〈O〉が後続したのもエトルリア語の初期の体系から受け継いだものである。*3

土木技術

ローマ人は早くからエトルリア人を通じて先進的なギリシア文化の影響を受け[…]ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する点においては、優れた能力をみせた。
[…]
ローマの実用的文化が典型的にあらわれるのは、土木・建築技術である。

『詳説世界史研究』p. 64.

ローマ人の使っていたセメントの発明とその建築・土木技術への応用は、ローマ人に帰せられる唯一の大発見で、*4 ローマ時代以降は18世紀までセメントの知識の進歩が見られないほどである。*5 ローマ人は実際に、消石灰から作られあまり硬さがなく、また防水性もなかった気泡モルタルに火山性土を付加することによって、それまでとはまったく異なったいくつかの特性をもつ驚異的なコンクリートを作り出したのである。すなわち、それは水を通さず、水を加えると固まり、1100N/平方センチメートルの強度を持つという特性を有していたのであった。この建設材料の登場により、帝政時代のおよそ紀元前27年から、まさしく土木建築の新しい時代が開かれたのである。*6*7

自然のままで驚くべき効果を生ずる一種の粉末がある。[…]これと石灰および割り石との混合物は、他の建築工事に強さをもたらすだけでなく、突堤を海中に築く場合にも水中で固まる。

ウィトルーウィウス『建築書』第二書 第六章 第一節 *8

この粉末とはヴェスヴィオ山の火山灰で、ナポリ近くのポッツオリ(Pozzoli)で産出するものが広く用いられたためポゾラナ(pozzolana)と呼ばれている。*9主な成分は\mathrm{SiO_2}\mathrm{Al_2O_3}であり、それぞれ約5割、約2割を占める。現在ではポゾランとは常温の湿分存在下でセメントの硬化に際し、生成遊離する\mathrm{Ca(OH)_2}と化合して水に難溶で硬化強度を出す石灰珪酸塩水和物を形成する材料のことを指す。*10

『研究』には〈哲学や文学、美術などの高度な精神文化ではギリシアの模倣に終わり、独創的な文化をつくることはできなかった。〉(p. 64)と書いてある。メソポタミアの宗教や文化の「原理的な考察」でも気になって言及したのだが、執筆者(これらが同一人物によるものかどうかは不明ではあるが)はどうも実用的な文化を下に見ているきらいがあるように思える。しかし、『水道書』で知られるフロンティヌスは実用的文化を誇りに思っていたらしく、次のような言葉を残している。

このように、大量の送水のために不可欠にならぶ構造物の行列を、もしお望みならば、無用のピラミッドや、有名ではあるが無益なギリシャ人の労作と比較していただきたい!

フロンティヌス『水道書』第16節 *11

サイフォン

サイフォンの原理を用いて周辺の丘陵地帯から都市に水を引く長大な水道橋も各地につくられた。フランスのガール水道橋、スペインのセゴビアの水道橋が有名である。

『詳説世界史研究』p. 65.

この記述はおかしい。長大な水道橋は緩勾配により重力で水を遠距離に移送するために作られていたはずである。サイフォンの原理を用いるのであれば、わざわざ長大な橋を作って水路を高いところまで持ち上げる必要はない。
サイフォンはローマ人よりもむしろギリシア人によってよく使われており、これにより起伏に富む地域で出費のかさむトンネルや重力流水路のための長く曲がりくねった溝渠を避けることができた。ローマ時代になるとサイフォンはほんの数例しか利用されていない。ペルガモンではエウメネス2世が建造したサイフォンを利用した水道があったが、ローマ時代には水道橋にとって替わられた。*12 また、カエリウスの丘とパラティヌスの丘はドミティアヌス帝が敷設したサイフォンで結ばれていたが、セウェルス帝は巨大なアーチを建設して給水路を変更した。*13 サイフォンが避けられた理由として、高圧に耐えるために小径厚肉の鉛管を並列に使用する必要があり大量に鉛が必要になることや、管壁から受ける抵抗により到達できる高度が出発点より低くなるという問題が挙げられる。リヨンでは4本の水道に9カ所のサイフォンがあったが、谷が深く水道橋の建設が困難であり、水源と市の水準の差にも余裕があるという地形条件からサイフォンが使われたのであろうといわれている。*14 ただ、サイフォンを利用するといっても水道橋が全く不要となるわけではないらしく、ウィトルーウィウスはサイフォンを利用した水道の建設について次のように書いている。

[流路は]もし谷がずっと連続しているならば斜面に沿って導かれる。谷底まで来た時、できるだけ長く水平が保たれるように、あまり高くない支持構造で支えられる。これがギリシア人のコイリアと言っている腹である。次いで向こう側の斜面に来た時、長い区間の腹から静かに盛りあがって丘の頂の高みに押出される。
しかし、もし谷に腹がつくられず、平らな支持構造もつくられないで、肱状部があるならば、水は奔流して管の接合部を毀してしまう。

ウィトルーウィウス『建築書』第八書 第六章 第五、六節 *15

文化的意義

ローマ帝国の文化的意義は、その支配をとおして地中海世界のすみずみにギリシア・ローマの古典文化を広めたことにある。

『詳説世界史研究』p. 64.

これはいわゆる「ローマ化」であるが、考古学的な研究の進展により「ローマ化」の影響は都市や要塞周辺、ウィッラに限定されていたことが明らかになっている。また、1990年代以降、ポストコロニアリズムの立場から、「ローマ化」概念は先住者の歴史や文化を軽視する植民地主義的な概念であるという批判もなされている。*16

*1:praenomenのGaeus, GnaeusがそれぞれC., Cn. と書かれるのはその名残り。

*2:松本克己「ギリシア・ラテン・アルファベットの発展」西田龍雄[編]『講座言語 第5巻 世界の文字』大修館書店 1981, p. 101.
S. ホロビン『スペリングの英語史』堀田隆一[訳] 早川書房 2017 [S. Horobin, Does Spelling Matter?, 2013], p. 65.
田中美輝夫『英語アルファベット発達史』開文社 1970, p. 78.
L. ボンファンテ『失われた文字を読む 6 エトルリア語小林標[訳] 大英博物館双書 學藝書林 1996 [L. Bonfante, Etruscan, 1990], pp. 33f.
J. ダンジェル『ラテン語の歴史』遠山一郎・髙田大助[訳] 文庫クセジュ 白水社 2001 [J. Dangel, Histoire de la langue latine, 1995], pp. 77f.

*3:ダンジェル op. cit., pp. 78-80.

*4:R. J. フォーブス『技術の歴史』田中実[訳] 岩波書店 1956, p. 72. [R. J. Forbes, Man the Maker, 1950.]
[2023.8.12追記]
コンクリートを用いた建築技術自体はギリシア人のエンプレクトン工法に学んだものであるが、ローマ人はそれをオプス・カイメンティキウム工法に発展させたり、またべトン工法を発明したりしている。(小林一輔『コンクリートの文明史』岩波書店 2004, pp. 11-15.)

*5:大塚浩司ほか『コンクリート工学[第3版]』朝倉書店 2017, pp. 5f.
また、この背景には、カトーが示した「セメントに用いる最良の石灰は、純白、最堅で、最重の石灰石を焼いて得られる」という原則が信奉されていたためという事情がある(名和 豊春「近代ポルトランドセメントの工業化 (豆知識)」『コンクリート工学』40(9) 2002, pp. 11-16. https://doi.org/10.3151/coj1975.40.9_11)らしいのだが、このカトーの出典は分からなかった。

*6:B. ハインリッヒ[編著]『橋の文化史――桁からアーチへ』宮本裕・小林英信[訳] 鹿島出版会 1991, pp. 59f. [B. Heinrich, BRÜCHEN: Vom Balken zum Bogen, 1983.]

*7:[2023.8.18追記]
消石灰の代わりに、あるいは消石灰と合わせて生石灰を使用していたという指摘がある。これにより、自己修復性をもたせる効果があり、現在までも残る建造物の強靭さに寄与しているという。
Linda M. Seymour et al., "Hot mixing: Mechanistic insights into the durability of ancient Roman concrete." Sci. Adv. 9, eadd1602 (2023). DOI:10.1126/sciadv.add1602

*8:森田慶一『ウィトルーウィウス建築書 〈普及版〉』東海大学出版会 1979, pp. 43f.

*9:[2023.8.12追記]
プリニウス『博物誌』にもこれについて記述がある。原文には〈in puteolanis collibus〉「ポッツオリの丘で」とある。puteoliはラテン語形であり、イタリア語ではPozzuoliである。
原文 Perseus Digital Library: Pliny the Elder, Naturalis Historia, liber xxxv, chapter 61
Wikisource: Naturalis Historia/Liber XXXV - Wikisource
英訳 Perseus Digital Library: Pliny the Elder, The Natural History, BOOK XXXV. AN ACCOUNT OF PAINTINGS AND COLOURS., CHAP. 47. (13.)—VARIOUS KINDS OF EARTH. THE PUTEOLAN DUST, AND OTHER EARTHS OF WHICH CEMENTS LIKE STONE ARE MADE.

*10:吉木文平『鉱物工学』技報堂 1959, pp. 450f.
本文中の〈Pozzoli〉の綴りは本書からそのまま引用している。昔はこちらの綴りの方が一般的だったのか、それともpozzolana(こちらにはpozzuolanaという綴りもあるようだ)に引きずられたのか?

*11:今井宏[著訳]『古代のローマ水道原書房 1987, 第三編「ローマ市の水道書」pp. 15f.

*12:R. J. フォーブス『古代の技術史 中 ―土木・鉱業―』平田寛ほか[監訳] 朝倉書店 2004, pp. 19-21. [R. J. Forbes Studies in Ancient Technology 1964-1974.(vol. I. Chap. 3)]

*13:今井 op. cit., p. 73.

*14:Ibid., pp. 28f.

*15:森田 op. cit., p. 226.

*16:南川高志「歴史への扉9 『ローマ化』という神話」服部良久・南川高志・山辺規子[編著]『大学で学ぶ西洋史[古代・中世]』ミネルヴァ書房 2006, pp. 122f.
Id.『新・ローマ帝国衰亡史』岩波新書 2013, pp. 41f.
Id.『海のかなたのローマ帝国 増補新版』岩波書店 2015, 第1章.
Id.「『ローマ化』論争」『論点・西洋史学』ミネルヴァ書房 2020, pp. 28f.

第1章③-9【原始キリスト教】

洗礼者ヨハネ

洗礼者ヨハネ John the Baptist があらわれ、民衆に終末の近いことを説教し、悔い改めを促して洗礼活動をおこなったが、ヘロデ一族を非難したためとらえられ、殺された。

p. 62

洗礼者ヨハネは〈「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言っ〉*1て〈罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。〉*2ここで、〈「罪の赦し」とは、当時のユダヤ教において公にはエルサレム神殿祭儀における祭司たちの仲介を通してのみ与えられたものである。このことを考えると、ヨハネのこの行動は、エルサレム神殿を向こうに回した、きわめて挑戦的な行為であることが分かる。〉*3
なお、ヨハネの非難はヘロデが兄弟の妻と結婚したことに対してのものである*4ので、「一族」という表現には違和感がある。

ナザレのイエス

ナザレに生まれたエス Jesus(前7頃/前4頃~後30頃)はヨハネの影響を受けて

p. 62

マタイおよびルカ福音書*5はイエスの生誕地をベツレヘムとしているが、これは旧約聖書にある以下の預言を受けたものである。

エフラタのベツレヘム
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために
イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。

ミカ書5章1節(新共同訳)

ルカ福音書によれば、クィリニウスがシリアの総督のときに行った最初の戸口調査*6のためにベツレヘムへ行き、そこでイエスが生まれたことになっているが、この戸口調査は紀元後6年のことである*7。これはザカリアの妻エリザベトが洗礼者ヨハネを身ごもったのがヘロデの時代(前37-前4)であり、その半年後にマリアが身ごもっていること*8と矛盾する。また、出生後は律法通りに儀式を済ませてナザレへ帰った*9ことになっているが、これはエジプトへ避難した*10とするマタイ福音書とは相違している。マタイによる福音書にのみ見られるこの挿話も預言*11が成就したことにするため*12ということを考えると、このベツレヘムで出生したという記述も信頼できない。両福音書に見られる「幼年期物語」は、一世紀の原始キリスト教会の中で形成された、ユダヤ教の伝統にあるミドラシュの類型に属するものである。*13
また、「影響を受けて」とぼかしてあるが、マルコ福音書によればイエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けた。マルコ福音書の執筆当時には洗礼者ヨハネの弟子たちのグループも活動しており*14、イエスの弟子たちにとって不利となる記述である。そのため、これは史実であると考えられる。*15

処刑と復活

タキトゥスは〈クリストゥスなる者は、ティベリウスの治世下に、元首属吏ポンティウス・ピーラートゥスによって処刑されていた。〉*16と伝えている。

その[=処刑の]後、弟子たちの間に間にイエスが復活し、その十字架上の死は人間の罪をあがなう行為であったとの信仰が生まれた。

p. 62

認知的不協和の提唱者で知られる L. フェスティンガーらは、〈布教活動が予言の失敗の結果として増大するという現象〉を報告しており、その理由について〈より多くの信奉者を集め、首尾よく支持者たちでまわりを固めることによって、信者は不協和があっても、それとうまく折り合っていける程度まで不協和を低減させる〉ためであるとする*17。ただし、最初期のキリスト教については「予言がはずれたか否か」については論争があるとして、この仮説に合致するかの判断を留保している。*18

新約聖書

これ[=『新約聖書』]はイエスの言行を記録した4つの『福音書』、ペテロやパウロがローマ世界に布教していく様子を記録した『使徒行伝』、パウロらが信徒に宛てた書簡、および黙示録からなり、2~4世紀にかけて現存のかたちに成立した。

p. 63

〈2世紀の終わりころになると、…多数の新しい教説がキリスト教の教会内部に生じたり、外部から教会を脅かすようになった。そして教会は、それらの教説と論争する中で、旧約聖書と並んで初代教会のどの書を権威あるものと見なすべきかを明確にしなければならない、と自覚するようになった。〉*19
アレクサンドリアの司教アタナシオスは、…367年…の手紙で…旧約と新約のどの書がエジプトの教会で読まれるべきかを確定した。明確な公会議の決議も必要とせずに、その決定は帝国東方のギリシア語を話す教会の中で広く受け入れられた。…ただし、ヨハネの黙示録の受け入れについては、10世紀に入ってもなお議論が続けられた。〉*20
西方では、アタナシオスが確定した〈『新約聖書』二十七書が正式に認められ…たのは、紀元393年ヒッポ公会議北アフリカ)においてであり、それが公布されたのは397年のカルタゴ公会議においてである〉*21

*1:マタ3:2
訳文、書名略号は新共同訳に準拠。以下注記なき場合は同様。

*2:マコ1:4, ルカ3:3

*3:佐藤研『聖書時代史 新約篇』岩波現代文庫 2003, pp. 38f

*4:マコ6:17-18

*5:マタ2:1、ルカ2:6-7

*6:ルカ2:2

*7:佐藤、op. cit., p. 36.
J. H. チャールズワース『これだけは知っておきたい史的イエス中野実[訳] 教文館 2012 [原著2008], p. 198.

*8:ルカ1:5-42

*9:ルカ2:39

*10:マタ1:13-15

*11:〈まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。〉ホセ11:1

*12:イスラエル出エジプトとイエスの体験を重ね合わせ、新しい民の形成を示唆する〉『聖書』(フランシスコ会聖書研究所[訳注] マタ1:13NB)という意味もあるとのこと。

*13:百瀬文晃『キリスト教の原点』教友社 2004, pp. 31f.

*14:使徒19:1-5

*15:百瀬 op. cit., p. 32.
チャールズワース op. cit., pp. 87f, 225-227.

*16:タキトゥス年代記」国原吉之助訳『タキトゥス 世界古典文学全集 第22巻』筑摩書房 1965, p. 286(XV. 44)

*17:L. フェスティンガーほか『予言がはずれるとき』水野博介 勁草書房 1995, p. 37

*18:Ibid., pp. 30ff

*19:W. クライバー新約聖書」S. ヘルマンほか『聖書ガイドブック 聖書全巻の成立と内容』泉治典ほか訳 教文館 2000, p. 221

*20:Ibid., p. 223
ここでいう〈読まれる〉は「朗読される」の意であろう。

*21:佐藤 op. cit., p. iv

「正しい」日本語

twitterでは(少なくとも私のTLでは)日本語の「誤用」の例示をして憤ったり呆れたりしてみせるツイートがしばしば話題になる。こういう例を見たとき、自分が気にならないときは


という風に他人事でいられるが、気に入らずに多少は不快になってしまうこともある。しかし、だからといってそれを「正誤」の基準にできないことはいうまでもない。
単に使っているだけの人に難癖をつけるのは非常に難しい。
それに対して、誤用であるという主張に対しては自身が基準を明確にしているからまだ突っ込みやすい。
好例として、「高嶺/根(の花)」がある。「嶺」が常用漢字表にないため新聞用語集では「高根の花」とすることになっており、多くの人が違和感を覚えるようである*1。私も昔はこの「誤用」を許せないと怒りを露わにした(ふりをした)ことがある*2

辞書にも「高根の花」に否定的な書きぶりなものがある*3

「高根」は新聞で使う代用表記。「嶺(ね)」は「みね(御根)」の意で、「根(ね)」と本来同語源とされるところから「高根」とする。

明鏡国語辞典第二版』(電子辞書版)「たかね【高嶺(高根)】」

ただ、正保版本『二十一代集』には「高根」が見られる*4など、必ずしも歴史のない表記ではない。『新訂大言海*5でも、「高根」を〈普通用ノモノ〉*6として挙げており、「高嶺」は「峻嶺」とともに他の用字として載っている。
明鏡のような辞書の記述も誤解を招きうるので問題とはいえ、現在は主に新聞紙上という特定の領域でしか使われない(実際にそうなのかは分からないが)という立場で「新聞用語」扱いをするという態度は、現代語の辞典としてはむしろ正しいと言えよう。

*1:新聞が使う「高根の花」は「高嶺」の誤り? – 毎日ことばplus

*2:これはツイート内に使われている漢字の多くが「同音の漢字による書きかえ」などの基準により書き換えられたものになっている、というツッコミ待ちのネタである。なお、誰からも突っ込まれなかった。

*3:新明解国語辞典』第7版(電子辞書版)、第8版(小型版)のいずれにも〈「高根」は借字〉とある。また、「高根/高嶺」は併記してあっても、連語としては「高嶺の花」のみしか書かれていないもの(広辞苑第7版(電子辞書版)、デジタル大辞泉(2016年4月の更新版に基づく電子辞書版)、大辞林第4版(ビッグローブ辞書アプリ版))も多い。逆に、『三省堂現代新国語辞典』第6版だと「高根の花」の方で立項されている。

*4:〈さ夜更て富士の高根にすむ月ハ煙はかりやくもるなるらん〉IIIF Curation Viewer

*5:大槻文彦『新訂大言海冨山房(1956)

*6:Ibid. p. 8.

twitterとの付き合い方

twitterは好きに使ってよい。もちろん使わなくても良い。最近は主にピクチャー(ジャーゴン)のRTをしてフォロワーの皆様のTLに流すために使っている。

美しい絵を見ていると無益な争いごと*1にコメントをする気にならず(蠅たたきとなるのはあなたの運命ではない*2)、結果として自身の投稿が減ってしまった。いっそのことこのままやめてしまいたいし、twitter側も背中を押してくれておりありがたい限りである。

にもかかわらず、ついついやってしまう。

他に何か吐き出す場所がないこともやめる上でのハードルの一つだと思うので、これからはもっと気軽にblogを更新していこうと思う*3

結局ツイートしてしまいましたね。
しゃい太郎情報室でした。

*1:twitterの話題の大半はこれ

*2:ニーチェツァラトゥストラはこう言った(上)』氷上英廣[訳] 岩波文庫 1967, p. 88.

*3:以前も同じような決意をして達成できなかった気がする

第1章②-13【アレクサンドロス大王とヘレニズム時代】

ギリシア文化の影響

大王の東方遠征から、もっとも長く存続したプトレマイオス朝エジプトの滅亡まで、ギリシア文化が東方の広大な領域に拡大していった約300年間をヘレニズム時代 Hellenism とよぶ。[…]この時代にはギリシア風の都市がオリエントやその周辺に多数建設され、これらの都市を中心にギリシア文化が広まった。

『詳説世界史研究』p. 49

ヘレニズム時代にはいるとギリシア文化は東方にも波及し、オリエント各地域の文化から影響を受けて独自の文化が生まれた。これをヘレニズム文化という。

『詳説世界史研究』p. 50

〈ヘレニズムという言葉は、[…]歴史学では19世紀ドイツの歴史家ドロイゼンが提唱した歴史概念に従って〉*1、上記引用のような意味で用いられている。〈しかし、アレクサンドロスの東方遠征やその後の支配が実際は広大な地域のごくわずかにしかおよばず、支配者のマケドニア人やギリシア人が活動した範囲も都市を中心に限定されていたから、ギリシア文化がオリエントに普及して両文化が融合したといっても、その程度は限られていた〉*2ことや、〈ペルシア人もまた、先行するアッシリアバビロニア、エジプト、メディアなど多様な文化を吸収して独自の総合を遂げていた*3*4ことを考えると、〈ギリシア中心主義、それを受け継いだヨーロッパ中心主義の視点を深く内在させている〉*5概念であるという指摘には得心がいく。
大王の東方遠征のもたらした変化についても、近年の研究では〈大王はアカイメネス朝の統治組織を受け継いだので、帝国内の各地域から見れば支配者が交代したにすぎず、行政にも社会のあり方にも大きな変化は見られない〉*6という連続性が強調されている。更に、〈アケメネス朝ペルシアが地中海東部にまで拡大したことによって[…]さまざまな商品がギリシア貨幣とともにペルシアに流布し、ギリシア人傭兵がペルシア領内にはいっ〉*7ていたため、ギリシアの人や物の流入も東方遠征以前からあった。こうなると東方遠征をどう評価すべきか分からなくなってしまうのだが、〈結局われわれがなすべきなのは、ギリシア文化を含む多様な文化の、アジアにおける動向を実証的に研究していくという、当たり前のことしかないのではないか。〉*8という態度が良さそうに思える。

*1:岸本美緒ほか『新世界史 改訂版』(世B313) 山川出版社 2017, p. 38

*2:Loc. cit.

*3:例としてペルセポリスの浮彫りが挙げてある。

*4:森谷公俊『興亡の世界史 第01巻 アレクサンドロスの征服と神話』講談社 2007, p. 23

*5:Ibid., p. 24

*6:Ibid., p. 334

*7:梅村担「第二章 オアシス世界の展開」小松久雄編『新版世界各国史4 中央ユーラシア史』2000年, p. 97

*8:森谷 op. cit., p. 333

京大2023年前期理系問題6

(1)
\cos3\theta=\mathrm{Re}[(\cos\theta+i\sin\theta)^3]=\cos^3\theta-3\cos\theta\sin^2\theta=4\cos^3\theta-3\cos\theta.
\cos4\theta=\mathrm{Re}[(\cos\theta+i\sin\theta)^4]=\mathrm{Re}[(\cos^2\theta+2i\cos\theta\sin\theta-\sin^2\theta)^2]=(2\cos^2\theta-1)^2-4\cos^2\theta\sin^2\theta=8\cos^4\theta-8\cos^2\theta+1.
(2)
ある正の整数m, nが存在し、\theta=\dfrac{m}n\cdot\piとなるとき、
0=\sin n\theta=\mathrm{Im}(\cos n\theta+i\sin n\theta)=\mathrm{Im}[(\cos\theta+i\sin\theta)^n].
辺々にp^nをかけて、
0=\mathrm{Im}[(1+ip\sin\theta)^n]=\dfrac1i\displaystyle\sum_{k=0}^{\lfloor\frac{n+1}2\rfloor}\binom{n}{2k+1}(ip\sin\theta)^{2k+1}=p\sin\theta\displaystyle\sum_{k=0}^{\lfloor\frac{n+1}2\rfloor}\binom{n}{2k+1}(1-p^2)^k.
さらに辺々をp\sin\theta(\neq0)で割って、
0=\displaystyle\sum_{k=0}^{\lfloor\frac{n+1}2\rfloor}\binom{n}{2k+1}(1-p^2)^k\equiv\displaystyle\sum_{k=0}^{\lfloor\frac{n+1}2\rfloor}\binom{n}{2k+1}\pmod{p}
=\displaystyle\sum_{j=0}^n\binom{n}{j}\dfrac{1-(-1)^j}2=\dfrac{(1+1)^n-(1-1)^n}2=2^{n-1}.
したがって、0\equiv2^{n-1}\pmod{p}となるのでp|2^{n-1}だが、これはpが奇素数ということに反する。
よって、\theta=\dfrac{m}n\cdot\piとなるような正の整数m, nは存在しない。



(1)のような問題の答え方は難しい。「3倍角の公式より」と答えだけ書いてしまうのもためらわれるが、「加法定理を繰り返し使い、\sin^2\theta=1-\cos^2\thetaに注意して整理すると」と断って途中式を全部省略した解答が減点されるというのも考えにくい気もする。