ソロンの改革
市民団を年間の農業生産物の高に応じて、500
石 級・騎士級・重装歩兵級・労務者級の4つの等級に分け、それぞれに応じて市民たちに参政権を与えた。『詳説世界史研究』p. 39
〈財産による市民の等級付けは、実はソロン以前から行われていたものだった。[…]ソロンの着想の新しさは、主として軍制上の要請に基づく旧来の等級づけを、国制参与の権利を定めるさいの下敷きに用いた点にある。〉*1
僭主政治
やがて多くのポリスでは、
僭主 tyrannos とよばれる独裁者が、平民の支持により非合法に政権を奪って僭主政治を実現するようになった。『詳説世界史研究』p. 39
【アテネ民主政の歩み】では他はアテネの話なのに、この一文のみ唐突にギリシア全土の話になっている。アテネに関して言えば、ソロンの改革後に政局が混迷を極め、ペイシトラトスが台頭した *2 わけであるが、他のポリスについても「やがて」で繋げるのは無理があるのではなかろうか。
ここでの僭主政治は前期僭主政のことであり、これは前7世紀後半から前5世紀前半にかけて多くのポリスで行われた。一般に前期僭主政は平民層の経済的安定・成長を助け、貴族の力を相対的に弱めて民主政ポリスの成立を促進した。*3 僭主(τύραννος)はリデュア語に由来し、本来は否定的な意味合いはなかったが、前5世紀になってそのような意味をもつようになった。*4
陶片追放
僭主の出現を予防するために
陶片 追放(オストラキスモス ostrakismos)の制度がつくられたのも、このとき[=クレイステネスの改革のとき]である。これは毎年春に全市民がアゴラに集まり、僭主になる恐れのある人物の名前を陶片(オストラコン ostrakon)に刻んで投票し、全部で6000票以上集まった場合に最多得票者を10年間国外追放するという制度である。『詳説世界史研究』p. 40
この陶片追放の制度の説明はプルタルコスの伝えるところとほぼ同じである。
まず町衆のひとりびとりがオストラコンとよばれる陶器のかけらに追放しようと思う町のものの名まえを書きこむ。そして、それを
広場 にある手すりでまわりをかこんだ投票の場所にもっていって投げこむ。それがすむと、アルコンたちが、はじめに投票総数をかぞえる。このばあい、もし投票者があわせて六千人に達しなければ、無効になる。つぎに陶片に書かれた名まえをべつべつにえりわけ、そのなかで、もっともおおく票を投ぜられたものが十年間の追放に処せられる。
陶片追放という制度は、…民衆のねたみをなだめるための心こまやかな工夫であった。…二度ととりかえしのつかぬ死刑ではなく、十年間の追放刑の宣告によって、人をやっつけてやろうとする民衆の悪意にはけ口をあたえたものであった。
としている。なお、前五世紀の同時代史料には陶片追放に僭主防止の目的があったことを示すものはなく、この制度の目的については諸説入り乱れている。貴族たちの激しい抗争を平和的に解決する手段であった、というのが近年有力になりつつある説らしい。*7 なお、面白い史料としては、わずか14人の書き手が同一人物の名前を刻んだとされる190枚の陶片が見つかっている。*8
陶片追放の最後の例はヒュペルボロスである。プルタルコスの伝えるところによれば、ニキアスとアルキビアデスの不和に乗じて民衆を焚きつけ、いずれか一方を陶片追放させようと画策したが、この狙いに気付いた両者が協定を結んだ結果、自分が陶片追放されてしまったという。
このできごと[=ヒュペルボロスの陶片追放]は当初、民衆にとって愉しみと笑いの種であったが、しばらくすると悔恨がそれにとって代わった。陶片追放がそれを適用される価値のない人物に適用されたのは、この制度に対する侮辱だという思いが広がったのである。…このため結局、ヒュペルボロス以降、陶片追放されたものはひとりもなく、これが最後の事例となった。
*1:伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』講談社学術文庫 2004 [「世界の歴史」第2巻『ギリシアとヘレニズム』講談社 1976], pp. 174f.
*2:高橋秀樹「ギリシア・ポリス世界の誕生と発展」服部良久・南川高志・山辺規子[編著]『大学で学ぶ 西洋史[古代・中世]』ミネルヴァ書房 2006, p. 22.
*3:古山正人「僭主政治」西川ほか[編]『角川世界史辞典』角川書店 2001, p. 525f.
*4:古山正人「僭主」ibid., p. 525.
*5:「アリステイデス」安藤弘[訳]『プルタルコス 世界古典文学全集 第23巻』村川堅太郎ほか訳 筑摩書房 1966, p. 89.
*6:Ibid., p. 88.
*7:澤田典子『アテネ民主政』講談社選書メチエ 2010, pp. 62f.
*8:Ibid., p. 66.