shaitan's blog

長文書きたいときに使う.

第1章③-1【エトルリアとローマ】

エトルリア人の起源

古代イタリア人の定住以前に、半島には非インド=ヨーロッパ語系の先住民が住んでいた。なかでも重要なのが、半島中部から北部のエトルリア地方に住んでいたエトルリア人 Etrusci であった。

『詳説世界史研究』p. 51.

エトルリア人の起源として古代より様々な説が唱えられてきた*1ヘロドトスはリュディア人の移民であるとし*2、レスボスのヘラニコスはギリシア人に追われたペラスゴイ人であるとした*3。ハリカルナッソスのデュオニシオスはこれらの説に反論し、土着民であるとしている*4。実はこれらの説は古代においては学術的、中立的な問題ではなく、エトルリア人という民族に対する評価のバイアスがかかっている。土着民であると主張すれば、エトルリア人ヘレネスとは共通点のないバルバロイであり、逆にリュディア移民説やペラスゴイ起源説はヘレネスに近い存在であるということになる。この時代には交易などの良好な関係は両民族間の近縁性(シュンゲネイア)に基づいて築くのが常道であり、この近縁性は作為的に設定されることもあった*5。これらの起源説から引き出せるのは、エトルリア人の過去についての知識というよりもむしろ当時のギリシア人との関係性についての知識である。*6
現在はエトルリア人が上記のような単一の起源を持つという想定そのものが見直され、問うべきは民族の起源ではなく形成であると考えられている。*7

鉱物

エトルリアは鉄や錫などの鉱物資源に恵まれていた

『詳説世界史研究』p. 51.

〈鉄の無限の鉱脈の〉*8 と歌われたエルバ島では〈採掘跡の坑道が時が経つとふたたび鉱石であふれている*9 とまで言われている。
錫の鉱石はチェント・カメレロ(Cento Camerello)の近くでかなり大量に、その地方の褐鉄鉱として開発されていた。*10

エトルリア文字

彼らの使ったエトルリア語は、ギリシア文字からつくられたエトルリア文字で記されているが、いまだに一部しか解読されていない。

『詳説世界史研究』p. 51.

エトルリア文字の起源は、イタリア半島南部の植民市クーマエのギリシア人の使っていた西方ギリシア文字である。*11 エトルリア最古の文字表はMarsilianaで発見された象牙板に刻まれていたものであり、これは文字としては初期の西ギリシア型アルファベットとほとんど変わらない。エトルリア語は閉鎖音に有声・無声の対立がなく、母音は/a e i u/の4つで、ギリシア語にない摩擦音/f/を持っていた。これらの音韻的特徴により、本来/g/の音価を持つ<Γ>は無声音/k/に対応し、/f/は<ϜΗ>で表記された。また、<Β>, <Δ>, <Ο>は銘文では一切使用されていない(外来語でも使用されない。例:Πολυδεύκης → Plutuce)。後期エトルリア文字はこれら表記に不要な文字を失っており、/f/を表す新しい文字<𐌚>が追加されている。*12

ローマへの影響

彼ら[=エトルリア人]の建築・土木技術や、公職者の服装、卜占術(動物の内臓占い)、凱旋式や剣闘競技などはローマに受け継がれていった。

『詳説世界史研究』p. 51.

アーチ

ローマの建築・土木技術の重要なものとしてアーチがある。ベルト・ハインリッヒ編著『橋の文化史』には、片持ち式アーチ(力学的にはアーチではない)や石の桁がアーチに発展した可能性が示されている。片持ち式アーチにおいては安定のために石をくさびのように食い込ませることで、石の桁においては石桁をいくつかの要素に分割することで、アーチへと発展していったというのである。*13
発生はどうあれアーチ構造はかなり昔から知られていたらしく、前2200頃にユーフラテス川に煉瓦アーチ橋が架かっていたという記録もあるが、アッシリア帝国全盛期(前9-7C)の浮彫にある城門アーチの絵が確実に確認される最古のものらしい。遺構としては前6Cの新バビロニア時代のものがバビロンに残っている。*14 ギリシャにおいてもアーチの橋が発見されているが、垂直ないし水平の構成要素からなるギリシア人の様式法則と合わなかったため、アーチはあまり使われていない。ローマのアーチの技術はエトルリアから継承したものであり、これらはいずれも半円アーチである。*15

公職者の服装

ローマの政務官が着用したトガ・プラエテクスタ(toga praetexta)、元老院議員や世襲貴族を特徴づける黒または赤の特別な履き物、騎士身分が身に着ける金の指輪やトラベア(trabea)と呼ばれる短い上着、最高司令官がまとった赤い上着「パルダメントゥム(palūdāmentum)」などがエトルリア由来である。*16
服装ではないが、X型の脚をした折り畳み式の高官椅子(sella culuris)もエトルリア起源で、ローマでは古くは王の占有物であったが、共和政期には執政官(consul)、法務官(praetor)、貴族造営官などの特権となった。*17
命令権の標識(īnsignia imperiī)として最も際立っていたのは束桿(fascēs)を持った先導警吏(lictor)の行列であり、これらもエトルリア人によってもたらされた。*18

凱旋式

ギリシア語のθρίαμβος「バッコス祭の行列」はエトルリア語を経由したため、破裂音/b/が無声化して/p/となり、古ラテン語でtriumpus「凱旋式」となった。*19

剣闘士 [2022/9/10追記]

剣闘士競技は従来はエトルリア起源とされていた*20が、昨今ではカンパニア起源説が通説である*21。剣闘士競技の最古の事例らしきものはイタリア南部のパエストゥムの墓の壁画に見られる。パエストゥムギリシアの植民都市であるが、この壁画は周辺地域の慣行を題材にしたと解される。エトルリアには野獣との格闘が描かれている壁画はあるものの剣闘士どうしが戦う場面の壁画はない。他にも、前1世紀にはカンパニア地方でことのほか剣闘士興行が盛んだったこと、円形闘技場の建設も他地域に先立っていたこと、剣闘士の武装型もサムニウム闘士が最古であることも傍証となる。これらの地域的特徴はいずれもエトルリア地方ではまったく見られない。*22

ローマ支配

ローマ人は[…]初めエトルリア人の王に支配されていた。しかし前509年、専制的なエトルリア人の王を追放してローマは共和政となった。

『詳説世界史研究』p. 51.

ローマの伝承によれば、エトルリア系の王が支配したのは前616年から前509年までの三代である。*23

タルクィニウス・プリースクス

コリントス人の父を持ち、外来者の血筋のためタルクィニー市での名誉を獲得する機会がなかったため、ローマに移り住んだとリーウィウスは伝えている。

ローマが移住に最適と思われた。
「あの新しい人民のもとでは、誰しも俄に立身し、功業によって高貴となるのですから、勇敢で、有為な男を容れる余地があるでしょう。現にサビーニー人タティウスが王になりました。ヌマはクレース人の間から王位へ招かれました。アンクスもサビーニー人の母親から生まれ、単にヌマの像のおかげで高貴なのです。」

リーウィウス『ローマ建国史』I. 34:6. *24

セルウィウス・トゥリクス

リヨンの青銅板に記録されたクラウディウス帝の演説によれば、セルウィウス・トゥリクスはヴルチのエトルリア人で、マスタルナ(Mastarna/Maxtarna)という名前であった。マスタルナはトスカナの傭兵隊の一員としてローマにやってきたらしい。*25

タルクィニウス・スペルブス

リーウィウスはルーキウス・ユーニウス・ブルートゥスがスペルブスを追放して共和政を樹立したと伝えている。

「[…]私[=ブルートゥス]はルーキウス・タルクィニウス・スペルブスを、彼の罪重なる妻を、その子らの血筋の全員ともども、剣で、火で、今後、わが身の能う限りの力で追及しよう。この者どもにも、他の何人にも、ローマで王たることを許すまい。」

リーウィウス『ローマ建国史』I. 59:1. *26

ただし、現代の歴史家の解釈はこれとは異なる。キウージの王ポルセンナがタルクィニウス家を追放しローマを占領するが、ポルセンナの息子率いる軍はクーマエのアリストデーモスの救援を受けたラテン連合の軍隊によりアリキアで撃破された。この戦いにおいてタルクィニウス家はエトルリアの出身であったがラテン連合側に付いており、民族間の抗争というものではなかった。*27

*1:M. パロッティーノエトルリア学』小川煕[訳] 同成社 2014, p. 69. [M. Pallottino, Etruscologia 7e, 1984]

*2:ヘロドトス『歴史』 I. 92

*3:ハリカルナッソスのデュオニシオス『古代ローマ』I. 28.

*4:Ibid., I. 26-30.

*5:例えば、スパルタ王アリオスは同盟と友好を宣言するにあたり〈スパルタ人とユダヤ人に関する文書を通じ、両者が兄弟であり、アブラハムの血筋であることが確認された。〉(1マカ12:21、新共同訳)との手紙を送っている。

*6:D. ブリケル『エトルリア人』平田隆一[監] 文庫クセジュ 白水社 2009, pp. 36-40. [D. Briquel, Les Étrusques 2005]

*7:ロッティーノ op. cit., pp. 85f.

*8:ウェルギリウスアエネーイス泉井久之助[訳]『ウェルギリウス ルクレティウス 世界古典文学全集 第21巻』筑摩書房 1965, p. 214.(X. 174.)

*9:ストラボン『ギリシア・ローマ 世界地誌 I』飯尾都人[訳] 龍渓書舎 1994, p. 392.(V. 2.)

*10:R. J. フォーブス『古代の技術史 上 ―金属―』平田寛ほか[監訳] 朝倉書店 2003, p. 367. [R. J. Forbes Studies in Ancient Technology 1964-1974, vol. IX Chap. 2.]
ただし、同書 p. 344 には〈そこ[=チェント・カメレロなど]の鉱脈は、鉄の鉱石(褐鉄鉱)の中に銅の鉱石と一緒にまばらに見えるだけである。〉とあり、こちらは豊富ではないような書きぶりである。

*11:ブリケル op. cit., p. 61.
J-P. テュイリエ『エトルリア文明』青柳正規[監] 「知の再発見」双書 創元社 1994, p. 154.
ロッティーノ op. cit., p. 336. [J-P. Thuillier, Les Étrusques La fin d'un mystère 1990]

*12:松本克己「ギリシア・ラテン・アルファベットの発展」西田龍雄[編]『講座言語 第5巻 世界の文字』大修館書店 1981, pp. 98-100.
田中美輝夫『英語アルファベット発達史』開文社 1970, pp. 63-69.
L. ボンファンテ『失われた文字を読む 6 エトルリア語小林標[訳] 大英博物館双書 學藝書林 1996, pp. 28-30, 36. [L. Bonfante, Etruscan, 1990]

*13:B. ハインリッヒ[編著]『橋の文化史――桁からアーチへ』宮本裕・小林英信[訳] 鹿島出版会 1991, pp. 22-24. [B. Heinrich, BRÜCHEN: Vom Balken zum Bogen, 1983.]

*14:山本宏『橋の歴史――起源一三〇〇年ごろまで――』森北出版 1991, pp. 125f.

*15:ハインリッヒ, op. cit, pp. 24f.

*16:ブリケル op. cit., p. 54.

*17:水谷智洋ラテン語図解辞典』研究社 2013, p. 246. "sella"
テュイリエ, op. cit., p. 115.

*18:ブリケル, op. cit., p. 54.
ロッティーノ, op. cit., pp. 236f.
Silius Italicus, Punica VIII. 483. Punica : Silius Italicus, Tiberius Catius : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

*19:ボンファンテ, op. cit, p. 30.
ブリケル, op. cit., p. 54.

*20:本村凌二「グラディアトル」『角川世界史辞典』角川書店 2001, p. 272.
グラディアトルとは - コトバンク(『日本大百科全書(ニッポニカ)』、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』、『世界大百科事典 第2版』)

*21:本村凌二「剣闘士競技」『論点・西洋史学』ミネルヴァ書房 2020, p. 36.

*22:Id.『帝国を魅せる剣闘士』山川出版社 2011, pp. 71-74.
ただし、同書p. 152にはサムニウム闘士の起源は戦争捕虜となったサムニウム兵士が祖国の軍装で出場したものである旨の記述があり、サムニウム闘士が古い武装型であるとしても起源の傍証にはならないように思われる。
なお、同書を参考文献に挙げているにもかかわらず、『研究』p. 55のコラム「剣闘士」には〈エトルリアの剣闘試合がその起源であるといわれる〉とある。

*23:ブリケル, op. cit., p. 70n.

*24:リーウィウス『ローマ建国史(上)』鈴木一州[訳] 岩波文庫 2007, p. 92.

*25:テュイリエ op. cit., pp. 19f, 76-78.
ブリケル, op. cit., pp. 71-73.
ロッティーノ, op. cit., p. 113.
ロッティーノはマスタルナをエトルリア人と断定することに慎重である。

*26:リーウィウス, op. cit., p. 146.

*27:ブリケル, op. cit., pp. 70f.