shaitan's blog

長文書きたいときに使う.

奈良県立医科大2009年


1\leq i< j\leq nを満たすある整数の組(i,j)を考える。
\sigma(i)>\sigma(j)を満たす\sigmaの集合をS'とおく。
i番目の数字とj番目の数字を入れ替える操作により、「S'に含まれないSの元」と「S'の元」が一対一対応するので、|S'|=\dfrac{|S|}2=\dfrac{n!}2である。
従って、\displaystyle\sum_{\sigma\in S}l(\sigma)=\sum_{1\leq i< j\leq n}|S'|=\dfrac{n(n-1)(n!)}4

第1章②-3【ポリスの成立と発展】

集住

集住は、アテネ Athenai のように有力貴族だけが中心市に集まる形態や、

p. 35

集住と言っても「実際に都市部に住民が移住したかどうかは問わない…[略]…アテネでは、相互に独立した村々の貴族層が、中心市に政治的結集をしてポリス形成が行われたという。」*1これはトゥキュディデスの伝える「テーセウスが王位につくと、…[略]…各地方の政治機能を全部集約して現在のアテーナイ市に統合した。王は住民たちには従来のとおり各地各村の土地の耕作をゆるしたが、自治機関たるポリスの機能をアテーナイただ一市に認めることを要求した。」*2に依るものであろう。しかし、Hansen はこれを"mythological fiction"と断じ、"Physical relocation of communities was the central aspect of all attested synoecisms, sometimes accompanied by the setting up of a new polis in the political sense" とする。*3

ポリス

前8世紀にはいると、それまでばらばらに定住していたギリシア人は、小さな地域ごとの安全を確保するため、有力者である貴族の指導のもとにいくつかの集落が連合し、アクロポリス akropolis(城山)を中心に人々が集住(シノイキスモス synoikismos)して都市を建てた。ここに成立したギリシア特有の都市国家ポリス polis という。…[略]…ポリスは防衛の中心となって人々の定住を促したため社会は安定し、暗黒時代は終わった。
…[略]…
社会が安定すると人口も増加し土地が不足したので、前8世紀半ばからギリシア人は大規模な植民活動に乗り出し…[略]…各地に植民市 apoikia が建設された。

pp. 34f

この記述は「植民市建設のプロセスはギリシア本土の都市化を経て、その後植民市に都市化のアイデアが伝わったとするもの」*4であろう。これに対し、Hansenらは "the polis emerged in the homeland and in the colonies more or less simultaneously; but in the colonies the new start and the proximity of an indigenous and sometimes hostile population speeded up the formation of the polis both as a walled town and as a political community so that, in some regions, the fully-fledged polis emerged more rapidly in the colonies than in the homeland"*5という見方を提唱している。

エトノス

ポリスこそギリシア文明の母体となる社会であった。
…[略]…
他方、バルカン半島の北部や西部には、同じギリシア人の社会でも、ポリスがつくられず、部族のゆるい連合体(エトノス ethnos)が国家を形成する後進的な地域もあった。

p. 35

トゥキュディデスは「今日にいたるまで、オゾリスのロクリス人、アイトーリア人、アカルナーニア人などの住む内陸地帯や、それらに隣接するギリシアの諸地方では太古の生活様式がつづいている」*6と書いており、ポリスに住んだ古代人もそれ以外の地域を「後進的」と評価していた。近代以降の研究においてもエトノスはあまり重視されてこなかったが、見直しの動きが進んでいるとのことである。*7

植民

人口の増加や貴族の政権争いが原因となって、海外に土地を求める下層市民が貴族の指導によって植民に出かけていった。

p. 35

植民に関する周藤の分析が面白かったので引用する。
「前古典期のポリスの多くは、独立した政治単位としての自律性と一体性を保持するために、社会が発展する過程で共同体の内部に意見を異にする集団が生じた場合には、これを植民団として外に送り出すことによって問題を解決していたと考えられる。…[略]…国制改革もまた、植民に代わる有効な共同体内部の調整機能を果たしうるものだった…[略]…結果的には植民ではなく国政改革によって共同体内部の問題を解決したポリス[=アテネとスパルタ]こそが、古典期に強国としてさらに発展していくことになったのである。」*8

文字とホメロス

それ[=フェニキア文字]をもとにギリシア語アルファベットがつくられた。これは…[略]…ホメロスの詩など文学の成立をも促した。

p. 35

ホメロスの詩の成立に対する文字の寄与がどれほどであったかは難しい。ホメロスは口誦叙事詩人であったと考えられている。「口誦叙事詩人は、…[略]…その場で新しい詩を、その場の状況に応じて組み立てる…[略]…。単語・文章・場面・物語の展開、様々なレベルでストックがあって、臨機応変に大きくも小さくも組み合わせられる。こうした作業を可能にするシステムが長い長いエポスの伝統として、ホメーロス以前に十分に発達しできあがっていた。」*9「このような叙事詩の技法は、文字を用いなかったからこそ発達したのであって、口頭的な叙事詩人にとっては文字は全く無用の長物なのである。」*10
現在にまで伝わる「書かれた」作品が成立するにあたっては、詩人が詩を語り、書記が書いたのだと考えられる*11。「筆記者のために語り聴かせるということになれば、詩人は自分の能力と知識のすべてを出しつくして、数日間も語り続けることができたはずである。それゆえ、実際の祭典などでの口演のときよりも、かえって内容が豊富で長大な作品が筆録され」*12たのであろう。少なくともそのような意味では文字は影響を与えていると言える。

ヘレネス

ギリシア人は…[略]…文化的には、方言の差こそあれ共通のギリシア語を話していること、オリンポス12神を中心とした神々と神話を信じていること、デルフォイ(デルフィ)のアポロン神の神託を信奉し、また4年に1度開かれるオリンピア Olympia の祭典(古代オリンピック)に参加することなどにより、同一民族としての意識をもちつづけた。彼らは自分たちをヘレネス Hellenes、異民族をバルバロイ barbaroi (わけのわからない言葉を話す者の意)とよんで区別した。

p. 36

ギリシア人の同胞意識といえば、ヘロドトスの伝える、アテナイ人のスパルタ使節団への言葉が有名である。「われわれが等しくみなギリシア人同胞*13であり、血のつながりをもち言語を同じくし、神々を祀る場所も祭式も共通であるし、生活様式も同じであることで、アテナイ人がこの同胞を敵に売るようなことは許されることではあるまい。」*14
ただし、「このような言語、宗教、生活習慣を基準とした共通意識は、この頃[=ペルシア戦争の頃]すでに長いことギリシア人のあいだで共有されていたのかと言えば、決してそうではない。ギリシア人を意味する『ヘレネス』という語は、ギリシア人としての一体感(アイデンティティ)の表出として理解できるが、この語は前古典期の後半になってできあがったにすぎない、と最近では指摘されている。ポリスという境界を超えて、人々が抱くようになったギリシア人としての一体感は、ペルシア戦争で異民族(バルバロイ、すなわちペルシア人)と対決したことによって鮮明になっていった、というのである。」*15
この『ヘレネス』という語の成り立ちであるが、ブルクハルトによれば「ヘラスという名称は最も初期の記述においては北方の二つの地区、すなわちテッサリアのプティオティスと(アリストテレスによれば)エペイロス地方のドドナの周辺を指してそう呼ばれていたが、その後この名称はテッサリア全体に、さらにはイストモス(コリントス地峡)以北全部に、そして最後にペロポネソス半島と諸島嶼にまで拡大され、ついにはヘレネスという言葉は非ギリシア人以外のすべての者を意味するようになった」*16
[2022.1.5追記]
また、バルバロイという言葉についても、〈ストラボンによれば、ホメロスはバルバロフォノスという言葉は用いても、バルバロスという言葉は使っておらず、また使われたとしても、バルバロスという言葉は、耳ざわりな話し方をする人びと、あるいは発音が重く聞きとりにくい口のきき方をする人に向けた擬音語として用いられたのであって、ギリシア人と区別するために軽侮の意味をふくませた『非ギリシア人』を指すものではなかった〉*17*18 とのことであり、トゥキュディデスも〈ホメーロスは「バルバロイ(非ギリシア人)」という言葉をつかっていない。〉*19 と書き残している。〈バルバロスという言葉が排斥的意味をもつようになるのは対ペルシア戦争という体験を通してであった。〉*20

オリンピック

オリンピアの祭典はとくに体育競技で有名であり、…[略]…前776年の第1回大会から

p. 36

前776年というのはオリンピアード紀年法によって逆算したものらしい。オリンピアード紀年法とは「前三世紀から一般化する古代ギリシア世界共通の暦年[であり、]…[略]…オリンピックとオリンピックの間の四年間を『オリンピアード』と呼んで、ある特定の年を『第〇オリンピアードの第〇年』というように記録する方法」*21である。なお、この体育競技の開始年代は考古学的調査(前800年頃から、以前よりもっと広い範囲の地域からの奉納品がめだつようになり、オリンピアの祭典が国際化したと考えられる*22)とも矛盾しないとのことである。

*1:古山正人「シュノイキスモス」西川正雄ほか編集『角川世界史辞典』角川書店 2001, p. 443

*2:トゥキュディデス『戦史 上』久保正彰訳 岩波文庫 1966, p. 208(II. 15)
同様の話はプルタルコス『英雄伝』「テセウス」の24章にも見られる。

*3:M. H. Hansen, "Theses about the Greek Polis in the Archaic and Classical Periods: A Report on the Results Obtained by the Copenhagen Polis Centre 1993–2003", Historia: Zeitschrift für Alte Geschichte 52 (2003), pp. 257–282. https://www.jstor.com/stable/4436692 http://www.teachtext.net/bn/cpc/cpc_95theses.html

*4:竹尾美里「ポリス形成論」藤井崇ほか編著『論点・西洋史学』ミネルヴァ書房 2020, p. 5

*5:Hansen, op. cit.

*6:トゥキュディデス op. cit., p. 59(I. 5)

*7:岸本廣大「古代ギリシアの連邦とその受容」藤井ほか編著 op. cit., pp. 20f

*8:周藤芳幸『古代ギリシア 地中海への展開』京都大学学術出版会 2006, pp. 163f

*9:逸身喜一郎『ギリシャ・ラテン文学 韻文の系譜をたどる15章』研究社 2018, p. 43

*10:藤縄謙三『ホメロスの世界』新潮選書 1996, p. 45

*11:A. B. Lord "Homer's Originality: Oral Dictated Texts", Transactions and Proceedings of the American Philological Association 84 (1953), pp. 124-134. https://www.doi.org/10.2307/283403 https://chs.harvard.edu/CHS/article/display/6179.2-homer-s-originality-oral-dictated-texts

*12:藤縄 op. cit., p. 46

*13:原文(Perseus Digital Library: Herodotus, The Histories, book 8, chapter 144, section 2)は Ἑλληνικόν であり、中性の形容詞による集合名詞的用法(高津春繁『ギリシア語文法』岩波書店 1960, p. 285f)。

*14:ヘロドトス「歴史」松平千秋訳『ヘロドトス 世界古典文学全集 第10巻』筑摩書房 1967, p. 408 (VIII. 144)
これはペルシアと講和しない二番目の理由であり、「第一の、しかも最も重大な理由とは、神々の神体や社殿が焼き払われ破壊されたこと」である。

*15:桜井万里子「プロローグ」桜井万里子ほか編『古代オリンピック岩波新書 2004, p. 9

*16:J. ブルクハルト『ギリシア文化史 第一巻』新井靖一訳 筑摩書房 1991, p. 24

*17:前田耕作『アジアの原像 歴史はヘロドトスとともに』日本放送出版協会 2003, p. 45.

*18:Homer, Iliad, Book 2, line 867 に βαρβαροφώνων の語があるのみ。

*19:トゥキュディデス op. cit., p. 58.(I. 5)

*20:前田 loc. cit.

*21:橋場弦「第1章 古代オリンピック」橋場弦ほか『学問としてのオリンピック』山川出版社 2016, pp. 6f

*22:Loc. cit.

第1章②-2【エーゲ文明】

クレタ

神話上この島[=クレタ]の王とされ、周囲に強大な海上支配を築いたとされるミノス王 Minos

p. 32

トゥキディデスは次のように伝える。〈伝説によれば、最古の海軍を組織したのはミーノースである。かれは現在ギリシアにぞくする海の殆んど全域を制覇し、キュクラデス諸島の支配者となった。そしてカーリア人を駆逐し、自分の子供たちを指導的な地位につけて、島嶼の殆んど全部に最初の植民をおこなった。もちろんかれは、勢力の及ぶ限りの海域から海賊を追払い、収益の道を拡大することに努力した。〉*1

クレタ文明の繁栄はオリエントとギリシア本土を中継するという、海上交易上有利な位置にあったことによる。

pp. 32f

地理的条件として、アリストテレスは〈その島[=クレタ]はよい位置を占めて自然の地勢からギリシアを支配するに適しているように思われる。というのはほとんど凡てのギリシア人たちがその周囲に住んでいるところの海の全体に跨っているからである。すなわち、或る地点ではペロポンネソスから、また他の或る地点ではアジアのトリオピオン地方とロドス島から僅かしか距っていない。〉*2と指摘している。

ギリシア民族の成立

ギリシア本土には、前2000年頃、北方からインド=ヨーロッパ語系のギリシア人が移住してきた。

p. 33

ギリシア語には-nthosとか-ssos (-ttos)とかの語尾を持つ名詞があるが、これらの語は他の語族から借用したと考えられている。この種の語は地名としてはギリシア本土(コリントス、パルナッソス山など)やエーゲ海の島々(クノッソスなど)、小アジア(ハリカルナッソスなど)と分布しており、先住民族がこのあたりの地域に広く居住していたことを示唆する。また、これらの借用語のなかには、海を表すthalassaをはじめとし航海に関する言葉が含まれており、これはギリシア人が移住してきた後に先住民から航海について学んだことを意味する。つまり、ギリシア人は陸路で北方から移住してきたのである。 *3
上記では『研究』の本文にあわせ、侵入民を単に「ギリシア人」と書いたが、伊藤貞夫は、侵入民は先住民と融合し、先進的な文化を積極的に吸収していったとして〈ギリシア人あるいはギリシア民族とは、この融合[=先住民と侵入民の融合]の過程で形成されたものではないか〉*4と書いている。

ミケーネ

これ[=ミケーネ文明]はドイツのシュリーマン Schliemann(1822~90)のミケーネ発掘によって明らかにされたもので、そこからは…[略]…おびただしい数の黄金製品が発見された。

p. 33

ホメロスは「黄金に富むミケーネの(πολυχρύσοιο Μυκήνης)」という定型句を使っている*5が、これはまったくの作り話という訳ではなかったようである。なお、もう少し短い言い回し*6として「道幅が広いミケーネ(εὐρυάγυια Μυκήνη)」という句も出てくる*7が、こちらについてはどの程度歴史的事実を反映しているのかはよく分からない。

*1:トゥーキディデース『戦史 上』久保正彰訳 岩波文庫 1966, p. 58(I. 4)

*2:アリストテレス政治学』山本光男訳 岩波文庫 1961, pp. 109f(II. 7(10), 1270b30)

*3:伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』講談社学術文庫 2004 [初出:「世界の歴史」第2巻『ギリシアとヘレニズム』講談社 1976], pp. 46-52.

*4:Ibid., p. 52

*5:Perseus Digital Library: Homer, Iliad, Book 7, line 180Homer, Iliad, Book 11, line 46Homer, Odyssey, Book 3, line 305

*6:ヘクサメトロスに乗せるために修飾語を変えていると思われる。

*7:Perseus Digital Library: Homer, Iliad, Book 4, line 53

第1章②-1【地中海世界の風土と人々】

ギリシア人の世界

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図1:p. 33「ギリシア人の世界」図

『詳説世界史研究』の「ギリシア人の世界」の図(図1)は『詳説世界史図録』のものと同じ*1であるが、教科書*2の図とは異なる点がいくつかある。まず、教科書ではフェニキア本土およびクレタ島がそれぞれ「フェニキアの勢力範囲」および「ギリシアの勢力範囲」の色で塗られているが、『研究』では塗られていない。また、教科書ではキプロス島南部を「フェニキアの勢力範囲」としているが、『研究』では全島を「ギリシアの勢力範囲」としている。*3更に、拡大図におけるミロス島は教科書では「ドーリア人」だが『研究』では「イオニア人」である。これらはいずれも教科書の方が正確なように思われる。ただ、教科書ではトロイア(とされているヒサルルク)は「エーゲ文明遺跡」を表す青三角ではなく白丸印となっており、こちらに関しては『研究』の方に分がありそうであるし、教科書では丸印だけのマラカ、カデス、キレネが『研究』では植民市名まで載っているのは嬉しい。なお、『研究』でも市名の書かれていない植民市が3ヵ所あるが、西から順にティンギス、カルタゴ・ノヴァ、カルケドンである*4

*1:日下部公昭ほか編、木村靖二ほか監修『山川 詳説世界史図録(第3版)』山川出版社 2020, p. 18
『図録』の地図はページレイアウトの都合上、右下部分がごくわずかに欠けている。

*2:木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』(世B310)山川出版社 2016, p. 27
岸本美緒ほか『新世界史 改訂版』(世B313)山川出版社 2017, p. 29

*3:画像は載せないが、教科書でのみ「フェニキアの勢力範囲」となっている部分は凡例と同じ色であり、起伏を表現するぼかしがない。これはレイヤの順序ないし透明度が他の「フェニキアの勢力範囲」と違うのだと思われる。

*4:Putzger Historischer Weltatlas Erweiterte Ausgabe 104. Aufl., Cornelsen 2011, p. 34

第1章①-14【イラン文明】

今日のゾロアスター教

今日なおイランの一部ではゾロアスター教徒が信仰を続けている。

p. 31

イランに残留したゾロアスター教徒の他に、迫害によりインドへ逃れたゾロアスター教徒(パールスィー)がおり、今に至るまで信仰を守っている。*1パールスィーは経済的に成功しており、「『インド亜大陸ユダヤ人』の異名をとっている。」*2一例を挙げると、タタ財閥の創業家ゾロアスター教神官の家系である*3

マニ教

3世紀のバビロニアに生まれた宗教家マニ Mani(216頃~276頃)は、ゾロアスター教ユダヤ教キリスト教、ヘレニズムのグノーシス主義、さらには仏教とを混合させてマニ教を起こした。

p. 31

マニ教は「ゾロアスター教をもとにキリスト教と仏教の諸要素を加えて創設した折衷的宗教」*4と説明されることもある。しかし、「自分の思想を練り上げるために活用した思想は実に幅が広い」*5とはいえ、マーニーは「ユダヤキリスト教系教団の出身[で、]…[略]…現在では、ゾロアスター教や仏教的な要素は壮年期以降の伝道の過程で吸収していったもので、マーニーのオリジナルの思想にはほとんど影響を及ぼしていないと考えられている。」*6

*1:Parsees – The World Zoroastrian Organisation

*2:青木健『新ゾロアスター教史』刀水書房 2019, p. 273

*3:Jamsetji Tata | Tata group

*4:マニ教」世界史小辞典編集委員会編『山川 世界史小辞典(改訂新版)』2004, p. 671

*5:青木健『マニ教講談社選書メチエ 2010, p. 154

*6:Ibid., p. 70

第1章①-12【パルティア】

バクトリア王国

ギリシア人が支配者であったバクトリア王国ではヘレニズム文化が栄えた。

p. 29

「1965年、フランスの考古学調査隊が、アイ・ハヌムでギリシア都市の遺跡を発掘し…[略]…ここがバクトリア王国の中心都市の一つであったことを明らかにした。…[略]…発掘の責任者、ベルナール教授…[略]…によると、建築技術はおおむねギリシア風であるが、建築の全体的なプランは非ギリシア的であ[り、]…[略]…メソポタミア、アカイメネス朝ペルシア、中央アジアという三つの様式が見られる。…[略]…ヘレニズム時代のアジアは、さまざまな文化が織り込まれた多元的な世界として理解されなければならない。ギリシア文化はその中の重要ではあるが、あくまでも一つの要素なのである。」*1

パルティア

ローマの歴史家ポンペイウス・トログスは「パルティア人はスキュティア人の亡命者であった。…[略]…なぜなら、スキュティア人の言葉では亡命者は『パルティ』と言われるからである。」*2と書いているが、「『パルティア人』という名称は、パルニ族が一時的に占領したこの地域[=カスピ海東南岸一帯のパルサワ(ギリシア語でパルティア)]の地名を冠した他称に過ぎない」*3ため、おそらく誤りであろう。なお、「パルニ族とは、中央アジアのサカ人の伝統を汲むイラン系アーリア人遊牧民の一派で、マッサゲタイ族の分派ダーハ族の出自とされている。」*4

*1:森谷公俊『興亡の世界史第01巻 アレクサンドロスの征服と神話』講談社 2007, pp. 318-325

*2:ポンペイウス・トログス、ユニアヌス・ユスティヌス抄録『地中海世界史』合阪學京都大学学術出版会 1998, p. 429(XLI. 1)

*3:青木健『アーリア人講談社 2009, p. 49

*4:Loc. cit.

第1章①-11【アケメネス朝】

アケメネス朝

アケメネス朝建国の祖であるキュロス2世 Kyros II(位前559~前539)

p. 27

キュロス二世はアケメネス家の出ではないらしく、王家を簒奪したダレイオス1世により「ハカーマニシュ[=アケメネス]家の系図の中にクル[=キュロス]王家の系図を嵌め込んで、両者は同じ一族であるかのように見せかけ」*1られただけのようである。実際、「ダーラーヤワウ[=ダレイオス]一世以降の皇帝が、由緒正しい古代ペルシア語に基づく三種類の即位名――ダーラーヤワウ、クシャヤールシャン[=クセルクセス]、アルタクシャサ[=アルタクセルクセス]――しか使用せず、チシュピシュ[=ティスペス]とかクル、カンブジヤ[=カンビュセス]と名乗った皇帝が一人もいないことから、第二代カンブジヤ二世と第三代ダーラーヤワウ一世の間に深い断絶」*2がある。更に、「キュロス二世は…[略]…自分をアカイメネス朝の王と名のったことは一度もない。」*3
先に引用した青木の著書『アーリア人』では「固有名詞…[略]…をできる限りイラン系アーリア語表記」*4してある。そのため、アルタクセルクセス(ギリシア語形)はクセルクセスにアルタが加わっただけに見えるが実はそうではないということが分かる。ヘロドトスは「クセルクセスは『戦士アレーイオス』、アルタクセルクセスは『大いなる戦士メガス・アレーイオス』の意である。」*5と解釈しているがこれは松平が訳注で指摘しているとおり誤りである。

王の目

王は「王の目」「王の耳」とよばれる監察官を巡回させ、彼ら[=知事]の動向を監視した。

p. 28

ヘロドトスは次のような逸話を伝えている。「遊びの間に子供たちは、…[略]…この子供[=のちのキュロス2世]を、自分たちの王様にえらんだのである。王様にえらばれたその子供は、子供たちの分担をきめ、…[略]…いわば『王の目』となるもの、…[略]…というふうに子供ひとりひとり役目を与えたのである。」*6これはメディア最後の王アステュアゲスの時代の話であるから、「ダレイオス1世が定めた行政査察官」*7であることと整合しない気がするのだが、これは単にヘロドトスがいい加減なこと書いただけなんだろうか。

王の道

サルデス・エクバタナ・バビロン・ニネヴェなど全国の要地を結ぶ『王の道』とよばれる国道をつくり

p. 28

この「王の道」の図であるが、『詳説世界史研究』(図1)と『詳説世界史図録』(図2)*8では道が異なる。本文の記述に合わせてエクバタナとバビロンも通るような図になっているようだ。高校の教科書等をいくつか確認してみたが、いずれも図2のようにスサとニネヴェとサルディスを結ぶ一本の道のみが描かれている*9。プッツガー歴史地図も同様に道は一本だけ*10。ただ、線の曲がり方がまちまちなため、適当に線を引いているところも多いのではないかと思われる。そもそも「正解」が分かっているわけではないので仕方ないのだろうが、ちょっと面白かった。他に細かいことを言うと歴史地図において当時存在しなかった地形(シリアのアサド湖など)があるのも気になるといえば気になる。
恐らくミスだと思われる箇所として、図1では「アケメネス朝の最大領域」の凡例が抜けている点と、「現在の国境」で係争中の部分も実線になっている(図2では破線である)点を指摘しておく。また、両者に共通することであるが、ヨルダン川西岸地区に線を引っ張って「イスラエル」と書いているのは攻め過ぎではなかろうか。

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図1:p. 28「アケメネス朝」図
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図2:『詳説世界史図録』の「アケメネス朝の領域」の図

ゾロアスター

教祖ゾロアスター Zoroaster については、実在は確かであるが、活動時期は前1300頃~前1000年頃とする説と、前630頃~前553年頃とする説が対立している。

p. 29

活動時期の後者の説の根拠は、「ギリシア語文献における『アレクサンダー大王の258年前』との記述にすぎず、今日ではこの間接的な証拠を真に受ける研究者はほとんどいない。」*11また、前者の説の根拠は、「アヴェスター語の古層から新層への発展にどれほどの歳月が必要だったかという曖昧な言語学的基準と、アヴェスター語の発展とインドのサンスクリット語の発展がどの程度の対応関係にあるかという、さらに曖昧な言語学的基準である。」*12研究者の間でも推定には幅があり、「前1700~1200年」と主張する学者もいるとのことである*13。また、活動した地域についても証拠は断片的であり、「現在のところ、タジキスタン東部がザラシュストラの故地の最有力候補となっている。」*14

ゾロアスター神学

善悪二元論に基づき、世界は善(光明)の神アフラ=マズダ Ahura Mazdā と悪(暗黒)の神アーリマン Ahriman との絶え間ない戦いであるが、最終的には光明神が勝利し、最後の審判によって善き人々の魂も救われると説く。

p. 29

この文には「説く」の主語がないが、文脈上ゾロアスターがそのように説いたように読める。しかし、「ゾロアスター教思想の最初期段階では、『アンラ・マンユ[=アーリマン]』と戦うのは飽くまで『スペンタ・マンユ』の役割であって、アフラ・マズダー本人は高次の次元で傍観しているだけである。」*15アフラマズダとアーリマンが戦うと言われるのは、「9~10世紀に編纂されたパフラヴィー語文献の中では、アフラ・マズダー(パフラヴィー語でオフルマズド)はアンラ・マンユ(パフラヴィー語でアフレマン)と直接対峙する設定に変更されている」*16ためであり、これは最後期のゾロアスター教神学である。

*1:青木健『アーリア人講談社 2009, pp. 117f.

*2:Loc. cit.

*3:森谷公俊「ダレイオス一世とアカイメネス朝の創出」小島建次郎ほか『ユーラシア文明とシルクロード ペルシア帝国とアレクサンドロス大王の謎』雄山閣 2016, p. 71

*4:青木 op. cit., p. 257

*5:ヘロドトス「歴史」松平千秋訳『ヘロドトス 世界古典文学全集 第10巻』筑摩書房 1967, p. 290(VI. 100)

*6:Ibid., p. 41(I. 114)

*7:「王の目・王の耳」世界史小辞典編集委員会『山川世界史小辞典(改訂新版)』山川出版社 2004, p. 115

*8:日下部公昭ほか編、木村靖二ほか監修『山川 詳説世界史図録(第3版)』山川出版社 2020, p. 16

*9:福井憲彦ほか『世界史B』(世B308)東京書籍 2016, p. 36
木畑洋一ほか『世界史B 新訂版』(世B309)実教出版 2016, p. 30
木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』(世B310)山川出版社 2016, p. 23
川北稔ほか『新詳 世界史B』(世B312)帝国書院 2017, p. 18
岸本美緒ほか『新世界史 改訂版』(世B313)山川出版社 2017, p. 27
帝国書院編集部編『地歴高等地図 現代世界とその歴史的背景』帝国書院 2019, p. 32
帝国書院編集部編『最新世界史図説タペストリー十八訂版』帝国書院 2020, pp. 5, 60
『地歴高等地図』は出典として〔Putzger Historischer Weltatlas〕と書いてあるのだが王の道の形状に関してはプッツガーとは異なる。山川はどれも同じデータを使いまわしている。帝国書院は地図ごとに線を引いているようで、本によって曲線はまちまちなうえ、タペストリーのp. 5とp. 60の地図の間ですら道の曲がり方が一致しない。

*10:帝国書院編集部編『プッツガー歴史地図 日本語版』帝国書院 2013, p. 34

*11:青木健『新ゾロアスター教史』刀水書房 2019, p. 17

*12:Loc. cit.

*13:Loc. cit.

*14:Ibid., p. 21

*15:Ibid., p. 39

*16:Loc. cit.